新たな旅立 ~自己中心から神中心へ~ 2019年4月7日礼拝


『 新たな旅たち ~自己中心から神中心へ~』             2019年4月7日

聖書:創世記12章1~4節                        片柳教会・合同礼拝

●12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

●序.4月は新学期です。町にはピカピカの1年生が輝いていますね!入学や進級、新社会人の皆さん、おめでとうございます。聖書のアブラハムも新しい出発をしました。聖書を開いたことのない人も、アブラハムという名はどこかで聞いたことがあると思います。アメリカで最も尊敬される偉大な大統領がアブラハム・リンカーンです。紀元前2000年中近東に生まれたアブラハムはイスラエル民族の先祖・始祖となり、やがて全世界の祝福の基となり、今では主を愛する人々から「信仰の父」と呼ばれています。今回から、このアブラハムの生涯から学んでいきましょう!

●1.  アブラハムの 「生まれ故郷ウル」 (創世記12:1)

アブラハムが生まれたのは、紀元前2000年、現在のイラクのバクダッド近隣の商業都市ウルという町でした。紀元前3000年、ウルはシュメール人が、ユーフラテス川のほとりに築いた世界最古のメソポタミア文明の都です。シュメール人は、人類最初の文字である楔形文字を発明しました。

アブラハムが生まれた頃は、ウルの都は、巨大なお月様の偶像の神殿ジグラッドを中心に、人口が50万人ほどの大都会でした。アブラハムは、父テラと共に、偶像の都ウルから旅立ちハランまで来ましたが、父テラはハランに留まり、定住して、やがてそこで死にました。父テラは、中途半端な信仰の生涯でした。

父テラがハランで死んだ時、アブラムはすでに75歳でした。いかに当時の人が長命であったとはいえ、すでに長老の年齢です。ウルの町で一角の成功を遂げた年齢です。普通ならこれから孫たちの面倒を見て、余生を楽しむ年齢でした。けれども、ある日、アブラハムは神の声を再び聴くのです。

2.  アブラハムの 「召命」(創世記12:1~4)

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

❶ 神の召命は「個人的」です。

この時は、アブラハムではなく、まだアブラムという名前の時でした。アブラムが、この御言葉を聴いたのは、父テラが死んだハランという町でした。実は、生まれた故郷のウルですでに受けていた御言葉を、このハランで再び、アブラムは聴いたのです。

1~3節に中に「あなた」という言葉が実に11回も使われています。主が、私たちひとりひとりに個人的にご計画を持っておられます。神の召命。ご計画や使命のはじまりは個人的なものです。

例話:私が神学校に入学した時、繰り返し問われたのは「神の召命」でした。神の召命を受けて、献身したのか?周りの人々の評判や評価ではなく、神が個人的に召命を与えられたのかということです。

神学校の生活は、過酷でした。私はこの片柳教会から支援されて神学校に送り出されました。当時は2代目の牧師奧山実先生でした。奧山先生は、海外宣教の奉仕でしばしば、教会を留守にされました。

私は神学校1年生の時から片柳教会と開拓伝道が始まった東川口教会の礼拝で毎週説教の奉仕ありました。1年で50回、礼拝説教しました。神学校では、ギリシャ語、ヘブル語もあります。他の神学の学びもあります。毎日午前1~2時頃まで勉強し、午前5時に起きて同じ部屋で私の父と同じ歳の重光神学生と毎日午前5時に起きて祈祷室でお祈りして、それから午前6時の神学校の早天祈祷会でお祈りして、毎日をスタートしました。ですから2年生の時に体調を崩してしまい、病院で診てもらいました。

その時のドクターの言葉を忘れることはできません。「うーん、君の体は勉強には向いていないんだ」と言われたんです。そんな私を支えたのは、神の召命の御言葉でした。先週のアブラハムの父テラの信仰は中途半端であったことを見ました。私も子供ころからいつもおばあちゃんに「お前は何をやっても中途半端だね」と言われた私が、KGKの学生伝道の奉仕をしてから神学校に入り、神学校を逃げ出さず、30歳から牧師になり、早や32年間も牧師の奉仕をしています。牧師の奉仕を投げ出さないで、皆さんに祈られ励まされて、今喜んで奉仕させていただいているのは、私にとっては驚き、奇跡なのですが、それは神の召命があったからです。神の召命の御言葉が私を支え、導き、祝福を与えてくれたからです。

主は、どんな人にもご計画を持っておられます。そしてその使命のはじめは個人的です。あなたにも主のご計画と使命があります。皆さんアーメンですか?

❷ 神の召命は、「新しい旅立ち」です。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

これはただ単に、地上の旅立ちを命じる言葉でありません。これはアブラムの今までの古い生き方から、新たなる生き方への旅立ちを命じる神の御言葉です。

「アブラムよ。今まであなたは、あなたの親兄弟、親戚、隣人といった人々の中で守られ、あるいは彼らの顔色をうかがって生きてきた。しかし、これからは天地万物の創造主である私に従って生きるのだ」と。

教文館『月刊キリスト』1月号(1966)より
教文館『月刊キリスト』1月号(1966)より

・三浦綾子さんはエッセーで語っています。「他者中心の人生は卑屈なものになってしまう。人の顔色をうかがい、ただ波風が立たなければよいと思って、ひたすら自分を押し殺して生きていると、後の日に「いったい自分の人生ってなんだったんだろう。」ということになってしまうだろう。さりとて、逆に、自己中心の利己的人生は醜悪なものとなってしまう。「私の人生は、私のものだ。どんな生き方をしようと私の自由だ。誰にも文句は言わせない。」というような生き方は、まったく醜いものである。しかし、人はただ神を中心に生きる時、美しい人生を送ることができる。」と語られました。皆さんアーメンですか?

本当にそうだと思います。主の召命は、アブラムに新しい旅立ちへの招きの御言葉でした。それは古い今までの生き方ではなく、主にある新しい生き方でした。別の言葉に置き換えると、自己中心の生き方から神の中心の生き方への招きです。

私たちも同じです。主のチャンレンジに答えましょう。はじめは色々失敗したり、私のように体調を崩したり、色々と困難はあるでしょう。いや必ず試練がやって来ます。

けれども、アブラムの旅立ちは、一見自己中心に見えたが、実は、神中心の人生への旅立ちであったのです。ですから、当面は多くの人々を当惑させることになりましたが、長い目で見ると、彼の一族ばかりか、全世界のあらゆる民族に対して主の祝福をもたらすことになるのです。

2千年後、アブラハムの子孫に主イエス様が誕生し、その後さらに二千年間、イエス様の福音が全世界に宣べ伝えられて、地の果ての日本の私たちにも福音が届らえました。世界中の数え切れない人々が、イエス様との出会い、絶望から希望へ、死からいのちへ、闇から光へとその人生を移していただいたのです。

●結論: あなたも「新たな旅立ちをはじめよう!」

❶ あなたも自己中心から神中心に立つ!

イエス様を信じる人は、アブラハムの子ども、子孫です。同じように、主はあなたを祝福し、あなたを通して主は祝福を多くの人々に注ごうと計画されています。そのために、自己中心から神中心にあなたが決断し、御言葉に従い、まず自分の罪を悔い改めて、イエス様を罪からの救い主として信じましょう。罪の赦しを受けましょう。心の傷を癒やして頂き増しよう! それからイエス様をあなたの心の王座に、あなたの人生の主・王様としてお迎えしましょう!神の中心の生き方へと新しい旅たちを始めるのです。

1週間は礼拝から祝福のスタートを始めるのです。1日はデボーションで御言葉を読み祈って始めるのです。日曜日は、部活があっても礼拝を優先しましょう。試合で朝の礼拝が難しければ、トワイライトに来ましょう!」自己中から神中心に立ちましょう!皆さんアーメンですか?

❷ あなたの学びや仕事も、主を第一に、人々の祝福のために励もう!

主の祝福があなたの学校や職場に注がれます。あなたのクラスや職場で「私はイエス様を信じるクリスチャンですと自己紹介しましょう」自己中心から神に中心に、あなたの学びや仕事をしましょう。

主を第1に、礼拝をささげながら一生懸命に学び、働くのです。自分の利益や損得のために働くのではなく、マタイ22:39「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と聖書の黄金律に従って、働くのです。人々の祝福のために喜んで働くのです。それが新たな旅たちです。皆さんアーメンですか?

❸ あなたの家族と「時間と感動を共有しょう!」

あなたの家族を愛そう。そして家族が互いに愛し合うのです。夫婦が愛し合い、親子が愛し合い、子どもが親を尊敬するためには、皆さんにお願いしたいことはこれです。「時間と感動を共有することです。」

これが基本です。「時間と感動を共有すること」 最初に、それは食事を共にすることです。

お母さんが一生懸命に作ってくれた美味しいご飯を家族そろって一緒に食べるのです。毎日が難しければ、朝ご飯を毎日、あるいは土日に晩御飯を一緒に食べるのです。「お母さんのご飯は、おいしいね!」

これが時間と感動の共有です。家族でハイキングや旅をすることも「時間と感動の共有です」

そしてご飯を食べたらバラバラに部屋いくのではなく、短く家庭礼拝をしてみんなで祈り合うのです。

夫婦が親子が祈り合う、これこそ感動体験です。愛し合う実践です。クリスチャンが結婚すればクリスチャンホームになるのではなりません。家族がそろって神を礼拝する家庭をクリスチャンホームというのです。家族で教会の礼拝に、家庭礼拝で御言葉を受け、「時間と感動を共有しましょう!」皆さんアーメンですか?

4月の新学期、私たちもアブラハムのように、新たな旅立をしましょう!アブラハムへの祝福を受けるために、自己中心から神中心へと、礼拝とデボーションの生活を始めましょう。

学校や仕事で、自分の利得のためではなく、人々の祝福のために学び、働きましょう。最後に家族が愛し合うために「時間と感動共を共有しましょう」皆さんアーメンですか?

●祈りましょう! 父なる神様・イエス様・聖霊様、御名を賛美します。あなたはわたしたちひとりひとりに、「あなたは、あなたの土地、の父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となる」と個人的に招いてくださいました。主に御言葉に従い、自己中の歩みから神中心へと導いてください。あなたを第一に、礼拝とデボーションを優先し、学校や仕事で自分の利得のためではなく、人々の祝福のために一生懸命に働き、家族が「時間と感動を共有して」互いに愛し合う祈りと愛の新しい歩みへと導き、お一人お一人を豊かに祝福してください。主のイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

中途半端な信仰 2019年3月31日礼拝

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『中途半端な信仰 ~ウルからハランで止まったテラ~』     2019年3月31日

旧約聖書: 創世記11章24~32節             片柳教会・主日礼拝

●11:24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。

11:25 ナホルはテラを生んでから百十九年生き、息子たち、娘たちを生んだ。

11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。

11:28 ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ。

11:29 アブラムとナホルは妻を迎えた。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父、またイスカの父であった。

11:30 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。

●11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。

11:32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

●序.創世記11章10節以下は、ノアの3人の息子セム、ハム、ヤフェテの一人、セムの子孫の系図です。大洪水後、人類の救いのために選ばれた氏族が、セムの一族です。創世記10章と11章は、ノアからアブラハムへの架け橋となっています。アダムからノアまでが10代、セムからアブラハムまでが10代です。大洪水の後で、人類は天にまで届くようにバベルの塔を立てて、主なる神に反逆しました。性懲りにない人類です。主はそれを裁かれて、言葉はバラバラに混乱し、全地に人類は散らされて行きました。それでも、尚、この人類を救おうと、忍耐の限りを尽くされる主なる神様です。せもても1つの民族だけでもと選ばれたのが、セムの子孫であり、アブラハムからイスラエルの民が出て、やがて全世界の救い主イエス様へと至るのです。今日はアブラハムの父テラが登場します。彼の信仰の歩みから「中途半端な信仰について」み言葉を受けましょう!

 

●1. 大洪水後、人間の寿命は 「短くなる」 (創世記11:10~26)

 

ここにはセム一族の歴史が詳しく描かれています。大洪水前の人間の寿命は、アダムからノアまで、平均900歳でした。ところが、大洪水以降は、大激減です。  セム600歳、アルパクシャデ438歳、

ぺレグ239歳、 アブラハムの祖父ナホル148歳、と現代に近づいています。大洪水後の地球環境の急激な悪化により、気象、食料、人間の遺伝子が傷ついて、寿命を縮めたのではないでしょうか?

 

●2. アブラハムの父テラの 「中途半端な信仰」 (創世記11:27~32)

 

11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。

11:28 ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ。

11:29 アブラムとナホルは妻を迎えた。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父、またイスカの父であった。

11:30 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。

11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。

セムの子孫の中で、「テラ」の家族のことが、詳しく記されています。ここで重要なことは、テラは、息子アブラハムとその妻のサライ、孫のロトとともに、ウルの都からカナンの地を目指して、旅だったという事実です。 しかし、ハランまで来ると、テラはそこに止まってしまって、定住しました。

なにゆえに、テラは、息子アブラハム夫妻、孫ロトたちを伴って旅立ったのか?それも北西を目指しましたのか? ここには書かれていませんが、息子アブラムの熱い勧めにより、重い腰を上げたのではないかいと思います。その事は、他の聖書個所から推測されるからです。

●(使徒の働き7:2~3)

7:2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、

7:3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。

 

このように主なる主の召命を受けたのは、「テラ」ではなく「息子のアブラハム」でした。

●テラの一族が住んでいたのはメソポタミアのウルという都でした。このウルという町は、偶像の町で、月の神ナンナールの礼拝が盛んに行われていました。イギリスの考古学者レオナルド・ウーリーの発掘によりウルの町は人口が50万人の大きな都市でした。宮殿には神殿ジグラッドの塔が高くそびえていました。しかも、父テラは、この偶像の神に仕えていた一人だったのです。そのことをヨシュアが語っています。

(ヨシュア記24:2)

「ヨシュアは民全体に言った。イスラエルの神、【主】はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。』

 

このような状況の中で、息子のアブラハムに「この土地を出て、私が示す地へと行きなさい。」

アブラハムは、熱心に父テラに私たちと一緒に主の示された約束の地に行きましょう!と説得したのです。

父テラとアブラハムの問答と経緯が、ユダヤ教の旧約聖書の律法の注解書「ミドラシュ文書」の中には次のように書かれています。

「テラは、実にウルの偶像作りであった。土をこね、窯に入れ、焼き上げた偶像で飯を食っていた。アブラハムは、ある日、父テラがつくった大小さまざまな偶像のうち「どれが一番強い偶像か」と聞いた。テラは「一番大きな偶像だ」と答えた。アブラハムは、父が外出したすきに、その一番大きな偶像を残して、他の偶像を全部ことごとく叩き壊した。帰ってきた父は「誰がこれらの偶像を壊したのか?」と問うた。アブラハムは「それは一番大きな偶像ですよ」と答えると、テラは怒って「そんなことがあるものか」単なる土偶の偶像に、どうしてそんなことができよう。」と、そこで息子アブラハムは「その通りですよ。お父さん。それは単なる土偶人形です。そんな何もできなものを神とするとは何たることですか」と、いさめたというのです。テラも偶像の愚かさを思い知った。こんなこともあって偶像商売から足を洗って、息子とともに、ウルを後に、道を北西にとり、ハランの地に入ったのです。」

●では、なぜ、カナンを目指していたのに途中のハランに留まったのでしょうか?

そこが住みやすかったのか。あるいは、テラとして、これ以上、故郷ウルを遠く離れることが嫌いだったのか。ハランまでは息子について来たのが「これ以上は、いやだ。もう疲れた。ここまでだ。これ以上知らない地に行くのはご免だ」と。そして父テラはハランの地で死にました。

11:32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

古来より、テラは「中途半端な人」の代表とされてきました。始めは素晴らしい信仰の旅、冒険をスタートしたのに、途中で目的地まで行かないで終わる人です。せっかく偶像を捨てながら、徹底せずに、中途半端に終わった人。偶像の都ウルと約束の地カナンの真ん中で、両方の引力により空中に舞う人です。

今日の創世記11章31節「テラはハランで死んだ。」という言葉は、後悔の文字として読まれます。

テラは、信仰の旅に出るには出た、主に従うには従った。しかし、途中で挫折した。残念なテラ、

「もう、これまでと、、、、、」と腰を下ろした父を看取らなければならなかった息子アブラハムの残念な顔が見えてきます。 テラも天国にはもちろん凱旋することができましたが、この地上では主の約束の祝福を受けることが出来ませんでした。父テラは、中途半端な信仰、中途半端な主への服従が、あなたの信仰は中途半端ではないのか? と、私たちの心を探り、チャレンジしています。

 

●結論: 中途半端はやめて、「終わりまで主に従おう!」

 

❶あなたは、中途半端にイエス様を信じていないか?

 

主に心から罪を悔い改めて、イエス様を罪からの救い主として信じていますか? あなたの人生の主として本当に従っていますか?

●3つの図の解説(緑5枚) (①未信者②肉のクリスチャン③聖霊に満たされたクリスチャン)

 

❷あなたは、中途半端な信仰の歩み、中途半端な学校・仕事・奉仕になっていないか?

 

何かを始めることは難しい事ではありません。それを成し遂げる事が難しいのです。ソロモン王は伝道者の書7章8節で語っています。「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」と。

まさにその通りです。何かをうまく始めると、私たちはすぐにうぬぼれます。しかし、それを成し遂げるには、忍耐が必要であることに、すぐにわかるようになります。忍耐はうぬぼれにまさっています。事の完成は、そのスタートにまさっているからです。

●これは人間関係についても同じです。男と女が出逢い、恋に落ちる時、お互いに相手のことを常に考え、互いに深く愛し合うことは、難しいことではありません。ロマンチックな最初の興奮は、すべてのことを心地良いものしてくれます。燃え上がる愛の炎の情熱は、躊躇したり不平不満を言いません。二人は不可能とさえ思える困難さえも乗り越えて、やがて結婚します。

●しかし、1年、10年、20年と時が過ぎると、その様子が変わります。子育てや仕事、他の趣味などに目が行くようになり、次第に不和が広がります。最初の興奮も、情熱の炎も消えてなくなります。お互いのことを考えるのに努力が必要になります。お互いに愛し合うように励まされる必要が出てきます。段々新鮮さを失い、色あせ、失敗に終わることがあります。

●聖書の中でも、たとえばノアは「正しい人でその時代にあっても全き人であった」と呼ばれています。

しかし、彼の最後の聖書の記述は「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」でした。

●新約聖書の中でも、パウロの弟子のひとりデマスのことが3回登場します。

1回目はパウロの同労者として語られています(ピレモンへの手紙24節) 2回目は簡単に言及されています。(コロサイ4:14) 3回目は、パウロによって「デマスは今の世を愛して、私を捨てて行ってしまいました。」と語られています(2テモテ4:10)

素晴らしいスタートを切りながら、まずい終わり方をした人たちがいます。

ある人は、信仰に幻滅して、この世に戻って行きました。ある人は、この世のキャリアとお金に夢中になって、主に対するフォーカス(焦点)がズレてしまう。また、ある人は高いに地位につきながらも経済上の不祥事で結婚生活も崩壊し、地に落ちてしまう。だからこそ、今日のテラの中途半端な信仰は、私たちへの警告であり、あなたへの信仰のチャレンジなのです。中途半端な信仰の歩みは、やめましょう!皆さんアーメンですか?

 

❸ 「今、始める」こと、そして「始めたことは、最後まで成し遂げよう!」

 

新約聖書のマルコは、愛すべき人です。そして励ましの人です。彼は幼い頃、イエス様の膝の上に乗り、頭をなでてもらい、手をおいて祈ってもらいました。マルコは、主への情熱に燃えて、若くして献身して、使徒パウロと一緒に第1次世界宣教の伝道旅行に出かけました。しかし、小アジアのペルゲの港に着いた時には、クリスチャンホームに生まれたボンボンのマルコは、伝道旅行での激しい迫害や様々な経済的、霊的な様々な戦いに心が落ち込み、気弱になって、ついにホームシックになってエルサレムの実家に逃げ帰ってしまいました。パウロは非常に腹を立て、第2次世界宣教旅行の時に、マルコを連れていくことでバルナバと論争になりました。パウロは、マルコは脱走兵であり、足手まといだから同行することを拒否しました。しかし、慰めの人バルナバは、なんとかしてマルコを立て直そうとして連れていくことを主張して二人はマルコを巡ってケンカ別れになり、結果的に伝道チームは2つに増えました。パウロはシラスを連れて、一方、バルナバはマルコを連れて、別々に世界宣教旅行に出かけて、結果的に宣教は拡大しました。

マルコは、自分の力、肉の力で伝道することに、挫折して、心から悔い改めました。マルコは、主に再献身して、自分の力、肉の力ではない、聖霊様により頼み、主に明け渡して、聖霊様に満たされて、最後は立派なクリスチャンとなりました。

殉教を前にした晩年のパウロはマルコについて、(2テモテ4:11)「マルコを伴って一緒に来てください。彼は私の務めに役に立つからです。」とローマの牢獄からマルコを送ってくれるように書き送りました。

マルコは、パウロの良き同労者となったばかりでなく、マルコは、4つの福音書の中の1つマルコによる福音書を書き上げて、神の国のために永遠に輝く奉仕を残しました。

マルコの信仰の歩みは、最初は、中途半端で、それはそれはひどいものでしたが、主のお取り扱いを受け、聖霊様に満たされて最後は立派に信仰の生涯を全うしました。

愛する兄弟姉妹! 私たちの多くは、聖書の人々のようなリーダーの部類に入っているとは言えません。でもみんな、イエス様と共に歩み、立派に走り終えたいと願っています。皆さんアーメンですか?

あなたは、クリスチャンライフの中で、立派にスタートを切ることができたかもしれない。あるいは、立派なスタートは切ることはできなかったかもしれない。そして今の時点で、主との歩みがうまく言っているかもしれない。反対に、うまくいっていないかも知れない。しかし、大事なことは、いかに終え、いかに私たちの信仰の生涯を締めくくるかなのです。

そのために、明日からではない、いつから始めるのですか?そうです「今でしょ!」「今日から、今から始めましょう! 今週から始まる新学期、デボーションから主よ共に歩みましょう! 新しい教会の奉仕を、新しい学校でのチャレンジを、家事や育児を、新しい仕事の種を蒔き、始めるのです。

はじめは小さく始めましょう! それを忠実に継続し、花を咲かせるのです。そして最後まで成し遂げましょう!皆さんアーメンですか?

お祈りしましょう!「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、心から主の御名を賛美します。私たちはテラのように、この世の生活や魅力に捕らわれて、最初の信仰のビジョンを見失い、家庭や学校、職場や教会で始めて事を、中途半端に投げ出して、失望落胆し、失敗は周りのせいにして、挫折を繰り返してきました。私たちは天国へは行けても、主の約束された祝福を逃したくありません。中途半端な信仰を悔い改めます。 そして始めの主の愛に立ち返ります。イエス様を救い主、人生の主・王として、心と人生にお迎えします。今日から再スタートします。聖霊様により頼みます。弱い私たちを助けてください。イエス様が再臨される時、良くやった忠実な僕よとお褒めの言葉を受けることができますように、おひとりおひとりを、導き、終わりまで全うさせてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」

教会の十字架(LED)が新しくなりました!

20181026_134801 20181026_133452台風の被害で、十字架のLEDの照明が破壊されて、輝きを失っていました。

しかし、教会堂を建築してくださったクレハ錦建築会社のスタッフの皆様の

見事な仕事で、再び、真っ白な美しい輝きを放っています!

 

PRAISE & WORSHIP LIVE in埼玉のご案内

 

◎日時:2019年 3月23日(土) 午後3時 ◎会場:片柳教会・礼拝堂

◎出演:浜松・ライブチャーチ寸座のワーシップチーム

(毎年夏、世界中のワーシップチームを迎えて、賛美のフェスティバルを開催し、日本のワーシップと教会の成長に仕えています。)*ご家族、友人誘い合ってご参加ください!

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片柳福音自由教会。2019年03月17日礼拝メッセージ。

『バベルの塔 ~分裂と混乱から救いと一致へ~ 』
旧約聖書:創世記12章1~9節

11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
11:2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。

11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

11:5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
11:6 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
11:8 【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことばを混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。

●序、皆さんは、外国の言葉は得意でしょうか? それとも苦手でしょうか?私も海外旅行や海外でのカンファレンスに参加した時など、もっと英語が堪能ならばどれ程楽しいかと思わされます。そもそも言葉がいっぱいあるから面倒なのであって、世界が1つの言葉であれば、これほど言葉で苦労することはないのです。でも今日の聖書を見ると世界は、もともと人類は1つの言葉でコミュニケーションを持っていました。ではなぜ、現在のように世界には7000ほどの国語があるようになったのか。

先週創世記10章のノアの3人の息子セム・ハム・ヤフェテから人類が70の民族に分かれ全世界に散らされて行ったのか?そのきっかけとなった事件があります。バベルの塔の出来事から主の御言葉を受けましょう!

●1.  人類のはじめ 「ひとつの言葉」  (創世記11:1)

11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。

人類のはじめは、1つの言語で、話し言葉は、1つでした。学校では英語の授業はないのです。外国語を習う必要はありませんでした。例話:妻の母は、女学校時代、戦争で、英語は敵国語であるから学んではいけないという文部省の通達で英語の授業がなくなりました。生徒たちは手を取り合って喜んだそうです。しかし、敗戦後、英語がわからない母は女学校時代、英語の勉強ができなかったことを今も残念に思っています。母も創世記11章の時代に生まれていれば、何の苦労もありませんでした。人々は、いつでも、どこでも自由に行き来し、自由にコミュニケーションしていました。

●2. 人類の野望 「名をあげよう!」 (創世記11:2~4)

11:2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
やがて人類は東の方から移動してシヌアルの平地に、つまりバビロンの平地に移動して定住したのです。
現在のイラクのバクダッド近辺の平野です。このシヌアルという場所は、創世記10章10節で、この世界の最初の権力者となったニムロデが王国を築いた場所です。人々は、1つの言葉でコミュニケーションは容易にできて、皆の力を1つに結集しやすいものです。国をひとつのまとめる上げるために最初に取る政策は全国共通の言葉を決めることです。明治維新で東京の言葉を全国共通の標準語にしました。   しかし、みんなが一致する時、どういう方向に一致するかが問題です。

シヌアルに集結した人々は、「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。」と野望を持ちます。
メソポタミア地方は、砂漠地帯です。石はあまりありません。彼らは石の代わりに「レンガ」を発明しました。日干しレンガは脆いのですが、焼いたレンガは石のように強度が強くなります。そして漆喰の代わりに瀝青(アスファルト)を接着剤に使うと、高層建築も可能になりました。

ニムロデは「神に逆らう」という意味の名前でした。ニムロデの子孫たちは、神に逆らい、自分たちの名をあげるために一致しました。
当時の文明の最先端のテクノロジーによって出来たレンガとアスファルトで天にまで届くような高い塔を築く計画を立てました。文明や技術の発達は悪いことではありません。

今から50年前、アポロ11号のアームストロング船長は、人類で最初に月面に立ちました。あの時の宇宙船のコンピューターの性能の何十倍ものコンピューターを今、皆さんは手に持っています。携帯は、現代の科学の最先端の技術の結集です。ですから科学の発展は素晴らしいです。でもこの技術を何の目的の為に用いるのかが問題です。主の栄光と神の国のために用いましょう!アーメンですか?

●人々は、天まで届くような高い塔を建築して、自分たちの名をあげようとしました。これが有名な「バベルの塔」です。バベルの塔は人間の力、人間の誇り、その名をあげるためでした。神に逆らう帝国を築いて見せると腕まくりしたのです。
パリにはエッフェルタワー、東京にはスカイツリーがあります。バベルの塔はどのような恰好をしていたのでしょうか? ブリューゲルのバベルの塔はローマのコロセウムを幾段も重ねた形で、上層部は未完成で、雲がかかっています。

●イラクのウルには、紀元前2000年前の高さ57m遺跡のジグラット(神殿)があり、このような形であったのではないか言われています。
「われわれが散らされるといけないから」とあります。人は真の神から離れる時、主との交わりを失い、主にある一体性を喪失します。その結果、人々は主を基盤にして交わりを持つことができなくなり、主から分離するだけでなく、人からも分離して、孤立し、孤独になります。

人間は、本来、三位一体の神のかたちに似せて造られました。ですから人はひとりでは生きていくことはできません。それゆえに、人々は互いに離れ離れにならないように、神抜きの一体性を求めました。人々は、バベルの塔を偶像にして、偽の一体性を求めました。

私たちは偶像を求めるのではなく、本当のアイデンティティーを与えてくださる、主を求めましょう!皆さんアーメンですか?

●3. 人類のさばき 「 バベル(混乱)と分裂」  (創世記11:5~9)

11:5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。

主は、人間のこのような企てに無関心のお方ではありません。もし、主が無関心であるなら、人間は絶望です。
主は世界中の主に逆らう者たちの企てに、あるいはニュージーランドのテロに対しても心を痛めておられます。
主の関心は、私たちへの希望です。人間の企てに対して天から降りて来られました。

何という皮肉でしょうか? 人間は天にまで届くような塔を建てようとしていたのに、主がご覧になると、それは天から降りて来なければならないほど、低く小さな建物だったのです。
●飛行に乗っていますと、機内アナウンスがあります「皆様、只今右手に富士山がご覧いただけます」 急いで窓をのぞきますと、ずーと下の方に小さな白い雪を被った富士山がチョコントあります。地上では見上げるほど大きな3776mの富士山も、高度1万m飛行機の上空からは小山に過ぎません。
天の神様からすれば、私たち人間の企てなど、いかほどのことがありましょうか?

詩編2篇1~4節
2:1 なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企(たくら)むのか。
2:2 なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。【主】と主に油注がれた者に対して。                              2:3 「さあ彼らのかせを打ち砕き彼らの綱を解き捨てよう。」
2:4 天の御座に着いておられる方は笑い主はその者どもを嘲(あざけ)られる。

●11:6 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」                           11:8 【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことばを混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。

主のさばきの結果、人々はコミュニケーションができなくなりました。(バベル)は「混乱」という意味で「バビロン」とも呼ばれます。
ヘブル語の「言葉」は「バーバル」です。その「バーバル」が「バベル」(混乱)になりました。

その混乱は、自分自身の中で起こり、人は神から離れ、自分のアイデンティティーを見失い混乱したのです。
そして人と人、家族の中で、混乱と断絶が起こり、社会へと拡大しました。お互いがチンプンカンプになり、争いや騒動が勃発しました。
そして神への反逆がとどめられたのです。バベルの塔の建築は頓挫して、放棄され、野ざらしとなりました。こうして人々は全世界へとバラバラに散って行きました。これ以降、人類の歴史は分裂と争いの繰り返しとなります。人類の歴史上、戦争のない日はありませんでした。私たちは、バベル「混乱」ではなく、神の言葉「バーバル」に立ちましょう!皆さんアーメンですか?

●結論: ペンテコステはバベルを救う 「主にあって救われて、一致する」 (使徒2:1~8)

●2:1五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり彼らが座っていた家全体に響き渡った。                            2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
●2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。        2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。                         2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。

聖霊降臨(ペンテコステ)は、バベルを救ったと言われます。
バベルの塔の事件で、人類の傲慢に対する主のさばきとして人類の言葉が分かれ、人類はバラバラになり混乱に陥りました。けれども、イエス様が十字架の救いを完成し、死より復活されて、天に昇られました。その10日後、イエス様を信じるすべての人々に聖霊様が下られました。このペンテコステの出来事によって、世界のあらゆる民族国語に福音が伝え始められ、全世界の人々はキリストにあって再び一つの民とされることになりました。

●主は、バベルへのさばきとして与えた呪われた民族国語への分裂を、キリストの福音と聖霊様の油注ぎによって祝福された多様性とされたのです。多様な民族文化が、キリストにあって混乱するのでなく、調和して一つとされる。キリストの福音は、呪われた分裂を祝福された多様性とされたのです。この一致と多様性は、この世界の隅々まで祝福として溢れます。

音楽のオーケストラと同じです。
指揮者がいないと楽器は不協和音で、うるさい騒音です。
しかし、指揮者によって様々な楽器がハーモニー調和して美しい音色の音楽となります。それがイエス様の福音です。

もともと、聖書の神は、三位一体の神です。父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様です。
3つの人格が独立していますが、存在は1つです。この父と子と聖霊様は愛と信頼の永遠の麗しい交わりを保っておられます。
3つの人格でありならが1つの存在です。いつも一致と多様性があります。
キリストの体である教会も同じです。教会には、様々な人々がいます。生まれも環境もみんな違います。赤ちゃんから小学生、中高生、学生青年、壮年 女性、高齢者、様々な職業、実にユニークです。多様性に満ち溢れています。でもバラバラではありません。イエス様を信じる信仰によって、私たちは1つです。
●私たちは信仰による1つとされた神の家族です。

エペソ4:5 「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」 皆さんアーメンですか?

家庭も同じです。お父さんやお母さん、子どもたち、おじいちゃんやおばあちゃん、みんな個性があり、多様性に溢れています。
今まで、家族のみんなが別々の方向を向いて、バラバラであった家族が、イエス様と出会い、信仰によって、1つとなるからです。家族のひとりひとりの個性は生かされ、ユニークな存在として多様性に溢れていますが、家族として調和があるのです。家族として1つなのです。社会もそうです。色々な境遇の人々、色々な国籍の人々がいます。 私たちはやがて天国で、全世界のすべての神の民と一緒になって主を賛美、礼拝をささげるのです。皆さんアーメンですか?

❶ 主にあって、自分自身と和解し、自己受容しましょう!

私たちの人生の歩みには、様々な失敗や挫折、罪があり、傷や痛みもあります。
ですから人は、そのような自分を受け入れることができません。思春期の子どもたちも自分の身体や性格のことで劣等感を感じて、自己肯定感がなく、自分が嫌いです。自分に対する親や兄弟、先生、職場の人の言葉に一喜一憂します。優越感と自己嫌悪を繰り返します。ですから自分自身の中に葛藤があります。あたかもバベルの塔のようです。そこにあるのは混乱です。私もイエス様に出会う以前は、自分が嫌いでした。でも、この教会で、大学1年生との時にイエス様に出会い、イエス様にありのままで愛され、受け入れられていることを知って、犯してきた罪を悔い改めて、イエス様を信じて、救われ、変えられました。自分の目ではなく、イエスの愛のまなざしで、主が赦して下さり、受け入れてくださったように、自分を見るようになり、自分自身と和解し、自分を自己受容できるように変えられました。すると今度は、私は、自分が一番好きになりました。短い足も、小さな目も、世界でたった一人だけのかけがいの無いユニークな存在です。私は神の最高の作品です。これからも主のために自分に与えられているすべて能力、すべての賜物を神の国のためにささげて用いていきます。
みなさん、あなたは主に愛されています。主にあって自分と和解し、あなたも神の国のためにささげましょう!アーメンですか?

❷主にあって、家族・友や職場で和解し、調和と一致をめざしましょう!

家族は、毎日生身の人間が生活を営む所です。両親もノアのように弱さがあり、失敗や罪を犯します。
親も子どももイエス様の十字架の血潮によって罪赦され、癒されることが必要です。そして互いに赦し合い、受け入れ合って和解することが大切です。こうして初めて色々な個性の家族が、ありのままの姿で受入れられて、今までバラバラ、別々の所を見ていた家族が、主を見上げ、祈り合い、調和して、一致して、ユニークな家族となれます。学校の友や職場の人々とも同じです。
和解し、調和と一致をめざしましょう!

私の福島の家族は3世代の家族でした。子供の頃、家族の団らんはなく、いつも言い争い、楽しくありませんでした。ですから将来の結婚にまったく希望がありませんでした。しかし、イエス様に出会い、多くのクリスチャンホームに招かれ、希望が与えられて、妻と幸せな結婚をすることが出来ました。家族で礼拝し、主に祈ります。おばあちゃまやおじいいちゃまの救いのために救われるまで一生懸命に一緒に祈りました。私は娘が一人立ちするまで毎朝頭に手を置いて主の守りと祝福をお祈りして送り出しました。    また子どもに、親のために祈ってもらいました。牧師の父が、キャンプや伝道集会の奉仕が祝されて、沢山のイエス様を信じる人が起こされるように、小さい娘が私の頭に手おいて祈ってくれました。教会の皆様にもいつも祈られていますが、子どもにも祈られると勇気100倍です。あなたも家族の救いのために祈りましょう。子どもや親の救いのために、家族と和解し、主にあって一致して祈り礼拝する家族になりましょう。

お父さんの仕事のために、お母さんの家事や育児、仕事のために、子どもたちの学校や部活のために互いに祈り合う家族を目指しましょう!皆さんアーメンですか?

お祈りしましょう!「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の主の御名を賛美します。私たちは神の御言葉に立たないとバベルの人々のように混乱し、バラバラです。御言葉に立って、イエス様の十字架の愛と赦しによって、自分自身と和解し、自己受容することが出来ますように。そして家族を赦し、和解して、赦し合い、愛し合うことが出来ましょうに導いてください。バラバラだった家族が主に向かって祈り合い、調和し、一致することが出来ましょうに、私たち一人一人をお導き下さい。私たちが神の国の拡大のために用いてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

片柳福音自由教会。2019年03月10日礼拝メッセージ。

『すべての民族のはじまり  ~贖いの救いのはじまり』
聖書: 創世記10章1~10、22~32節

10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。大洪水の後、彼らに息子たちが生まれた。
10:2 ヤフェテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
10:3 ゴメルの子らはアシュケナズ、リファテ、トガルマ。
10:4 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシュ、キティム、ドダニム。
10:5 これらから島々の国民が分かれ出た。それぞれの地に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった。
10:6 ハムの子らはクシュ、ミツライム、プテ、カナン。
10:7 クシュの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシェバ、デダン。
10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の勇士となった。
10:9 彼は【主】の前に力ある狩人であった。それゆえ、「【主】の前に力ある狩人ニムロデのように」と言われるようになった。
10:10 彼の王国の始まりは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。
10:22 セムの子らはエラム、アッシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。
10:23 アラムの子らはウツ、フル、ゲテル、マシュ。
10:24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。
10:25 エベルには二人の息子が生まれ、一人の名はペレグであった。その時代に地が分けられたからである。彼の兄弟の名はヨクタンであった。
10:26 ヨクタンが生んだのは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、
10:27 ハドラム、ウザル、ディクラ、 10:28 オバル、アビマエル、シェバ、
10:29 オフィル、ハビラ、ヨバブ。これらはみな、ヨクタンの子であった。
10:30 彼らが住んだ地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。
10:31 以上が、その氏族、その言語、その地、国民ごとの、セムの子孫である。
10:32 以上が、それぞれの家系による、国民ごとの、ノアの子孫の諸氏族である。大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出たのである。

序、この10章は、ノアの3人の息子セム、ハム、ヤフェテから全世界の70の民族が生まれたことがわかります。
この民族表の意味は何でしょうか?
❶全人類は一体であることを教えています。
大洪水の裁きの後も、1組の夫婦、ノア夫婦から70の民族が始まります。
70は、聖書の完全数であり、全人類を表しています。私たちを偏狭な民族主義や人種差別から私たちを解放します。

❷民族の分布は、神の摂理と祝福の拡大を表しています。
使徒17:26 「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。」

❸民族の拡大は、罪の拡大と共に、イスラエル民族による救い主のご計画の必然性を表しています。

1. すべての民族の 「はじまり」  (創世記10章1~10)

❶ ヤペテの子孫 「インド・ヨーロッパ人種」 (10:2~5)

10:2 ヤフェテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
10:3 ゴメルの子らはアシュケナズ、リファテ、トガルマ。10:4 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシュ、キティム、ドダニム。
10:5 これらから島々の国民が分かれ出た。それぞれの地に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった。
ヤペテの子孫は、白人に分類されます。海岸に住み交易の民となります。やがてこの民族から多くのクリスチャンが生まれ、沢山の宣教師を全世界に派遣されます。

❷ ハムの子孫 「 アラブ・アフリカ人種」 (10:6~10)

10:6 ハムの子らはクシュ、ミツライム、プテ、カナン。
10:7 クシュの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシェバ、デダン。
10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の勇士となった。
10:9 彼は【主】の前に力ある狩人であった。それゆえ、「【主】の前に力ある狩人ニムロデのように」と言われるようになった。
10:10 彼の王国の始まりは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。

ハムの子孫は黒人です。特にクシュの子ニムロデは、地上で最初の権力者となったと記されています。
彼は、どのようにして権力者になったのでしょうか?「彼は主の前に力ある狩人であった。」
ニムロデが、弓と矢という武器で人々を征服し、権力を握ったのです。
猟師の賜物は、確かに主から与えられてものです。その能力によって成功し、経済力と政治力を得たのでしょう。
彼は、主から与えられた賜物・能力を、自分の権力を得るために用いたのです。

これ以降、「ニムロデのようだ」といわれるような権力者、独裁者が歴史上次々と生まれてきます。
このハムの子孫は中近東のバビロニア、アッシリアへ、北アフリカへと拡大します。
ですからニムロデの権力欲は、後の歴史上の権力者、独裁者たちに引き継がれ、本質的に神に逆らう者です。

こうして大洪水の裁きの後も、人間の罪が、増大し、さらに拡大して行くのです。

❸ セムの子孫  「救い主・イスラエルの民が生まれる」 (10:21~25)

10:21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であり、ヤフェテの兄であった。
10:22 セムの子らはエラム、アッシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。
10:23 アラムの子らはウツ、フル、ゲテル、マシュ。
10:24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。
10:25 エベルには二人の息子が生まれ、一人の名はペレグであった。その時代に地が分けられたからで』ある。彼の兄弟の名はヨクタンであった。

セムの子孫は、今日の黄色人種です。私たち「日本人もこのルーツに属します。
重要なことは、このセムの子孫から主の選びの民イスラエルが出てくるからです。
セムの子孫で最も注目すべきは人物は「エベル」と「ぺレグ」です。「エベル」は過ぎ越すという意味があり「へブル」の語源となったと言われています。
もう一人の「ぺレグ」は「分ける」という意味です。25節に「彼の時代に地が分けられたからである」と記されています。
詳しいことはよくわかりませんが、何か大きな変化が「あったことは確かでしょう。11章のバベルの塔の事件の影響がセムの子孫にも何か起こったのかもしれません。

●いずれにしてもセムの人々は、箱舟が止まった所で、礼拝を中心に中近東からアジアへと拡大して行きます。
こうして全世界のすべての民族が始まりました。そして全世界に広がってきました。
一人は、貿易で物を求め、一人は権力を求め、一人は礼拝を求めました。あなたはどれを求めますか?礼拝の民として歩みましょう!皆さんアーメンですか?

●2. 贖いの救いの 「はじまり  」 (ローマ人への手紙5章12・17・21)

5:12 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべて
の人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
5:17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の
賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配す
るようになるのです。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリス
トにより永遠のいのちに導くためなのです。
主は、一人の人からすべての人を生まれさせてくださいました。それは、取りも直さず一人の救い主によって全人類に救いの機会が与えられていることを示しています。
現代の私たちも、日本と世界に向かってイエス様の救いを宣べ伝える使命が与えられています。

●例話:『ニューヨークのリディーマー長老教会の創設者、 ティム・ケラー牧師(66)』
(ニーヨークからスタートして、世界54都市に381教会を立ち上げている。
神学者でもあるティム・ケラー牧師は、十字架の贖罪を説明する5つの用語があると語っています。

❶神殿用語で、「罪の汚れからの贖い」 (イザヤ6:7~7)
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

❷捕囚の用語で、「社会から締め出された人の贖い」 (ヨブ記29章12~13節)
29:12 それは私が、叫び求める苦しむ人を、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
29:13 死にかかっている者からの祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。

❸市場の用語で、「人を奴隷化する負債からの贖い」(エレミヤ書 15章21節)
15:21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。

❹法廷用語の用語で、「人が神のさばきの座で「義と認められる贖い」です。 (ローマ3:23~24)
3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

❺ 霊的戦いの用語で、「罪と死の力からの贖い」(ローマ6:23)
ローマ6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

●福音派と呼ばれる私たちは、どちらかというと❹「法廷用語の義と認められる義認の救いの贖い」と❺霊的戦いの用語で「罪と死の力からの贖い」の
2つを強調してきたように思います。
そしてどちらかというと❷「捕囚の用語で社会から締め出された人の贖い」と
❸「市場の用語の人を奴隷化する負債からの贖い」とが、特に弱かったように思います。

●結論: 私たちも十字架の贖いの 「救いを宣べ伝えよう!」

❶ ②の捕囚の用語で「社会から締め出された人の贖い」を伝えよう。 (ヨブ記29章12~14節)

29:12 それは私が、叫び求める苦しむ人を、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
29:13 死にかかっている者からの祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。
29:14 私は義をまとい、義は私をおおった。

●例話『熊本/慈恵病院は2007年より『こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を設置して、一番小さく弱い赤ちゃんの命を守るために始めた。
今までに130人の赤ちゃんの命を救いました。田尻由貴子さんは看護部長として活躍する。(私の目標は、日本のマザーテレサになることです。)
●しかし、当初、赤ちゃんホストは、捨て子を助長するとんでもないポストだと全国からの抗議の電話がなりやまなかったそうです。

この働きは、この世で一番小さく、無力で一番弱い赤ちゃんの命を救い、守るためでした。しかし、世の人々は赤ちゃんの命ではなく、捨て子を助長するとしか理解しませんでした。
●現在の日本の三大疾病と死亡数は、第1位はガンで40万人、第2位は心臓疾患20万人 第3位は脳血管疾患(脳梗塞、脳卒中)10万です。死者全体の半数です。

一方、人工中絶は年間19万人です。少子化が叫ばれる時代、新しい命が闇から闇に葬られています。
心臓疾患とほぼ同じです。人工妊娠中絶は19万人で日本人の死因3位となっていることを知っている人は少ないのではないでしょうか?
誰が、この全く無力で、小さく弱い、大切な命を守ってくれるのでしょうか?「社会から締め出され、見捨てられた人を贖うのはだれか?」この小さな赤ちゃんの命を守ろうと立ち上がったのが、熊本市にあるカトリックの病院慈恵病院の医師と看護師たちでした。その先頭に立って、退職後も赤ちゃんとお母さんを助けるために献身しているのが田尻由貴子さんです。私たちも赤ちゃんや幼い子供たちの小さな命を守り、CSや教会で育てましょう。皆さんアーメンですか?

❷ ③の市場の用語で「人を奴隷化する負債からの贖い」を伝えよう。(エレミヤ書 15章21節)
15:21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。

例話:『賀川豊彦 (1888年7.10(明治21)~ 1960.4.23(昭和35) 大正・昭和期の牧師・キリスト教社会運動家)

戦前日本の労働運動、農民運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人です。
救いの証しの自伝「死線を超えて」は400万部の大ベストセラーになりました。その本の印税をすべて伝道と貧しい人々の救済にささげました。
キリスト教における博愛の精神を実践して、「貧民街の聖者」と呼ばれました。

戦前は、現代世界の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と日本よりも世界で有名になりました。
何度かノーベル平和賞、ノーベル文学賞の候補となっています。第2次大戦後、天皇の戦争責任問題で、天皇の退位と裁判にかけるか問題になった時、マッカーサーが真っ先に相談したのが賀川豊彦で、彼のアドバイスで、天皇制は守られたと言われています。

この賀川豊彦は、 神戸に、芸妓のかめの次男として生まれる。 満4歳の時に父も生みの母も病死したため、徳島の父の正妻に引き取られ養育された。 妾の子としていつもイジメられ、16歳の徳島中学在学時に米国長老教会のマイヤース宣教師夫妻と出会い、愛されて、イエス様を信じ、洗礼を受け、生涯精神的かつ財政的な援助を受けます。 明治学院高等部に入学。図書館に所蔵されていたあらゆる本を読破したといわれる。新設の神戸神学校に転校。 その頃、肺結核を患い、医師から二度も死を宣告される。「どうせ死ぬのなら、自殺する勇気をもってすべてに向かって行こう」と貧民の伝道と奉仕の献身します。

この時21歳でした。神戸市新川のスラム街には現代の奴隷のような生活を送る貧しい人々がたくさんいました。
賀川豊彦はそこに住まいを移し、路傍伝道を始めます。関東大震災救援のため東京へ移住するまで、約10年間スラムに住み、伝道と貧民救済に献身しました。

その伝道で救われた女工さんのハルと結婚します。賀川はスラムの人々を招いて披露宴を行い、普段はきつねうどん以上のご馳走を口にしない彼が寿司の折詰を配って妻ハルを紹介して言いました。「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなた方の家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります」

ハルは結婚後、賀川とともにスラムで貧民の救済活動に献身、不衛生なスラムの環境によりトラコーマに感染し右目を失明します。賀川豊彦も両眼ともトラコーマに冒され、何度も失明の危機を経験します。
この間、米国プリンストン大学に留学し、帰国後は、全国を巡回伝道し、日本中の貧しい人々の救済事業・無料巡回診療に尽くします。 さらに貧しい労働者のために日本で最初の労働組合を作ります。さらに消費者のために生活協同組合「コープ」を作り、貧しい農民のために「農業協同組合」 、貧しい労働者たちを代表する政治政党「日本社会党」を作ります。そして婦人の選挙、権利にも奮闘します。
総理大臣の候補にもなります。日本中に伝道し沢山の教会を建て上げます。「世界の平和」という祈りが最後の言葉となり71歳で召されました。賀川豊彦は、市場の用語で「人を奴隷化する負債からの贖い」の福音を伝え、貧しく、奴隷のようになっている人々にイエス様の愛と福音を伝えました。

私たちも、今遣わされている所で、苦しむ人々、助けを求める人の声に耳を傾け、友となり、イエス様への架け橋を築き、福音を分かち合いましょう!
皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう!
「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の主の御名を賛美します。
全世界のすべての民は、ひとつです。イエス様を信じる民もひとつです。
イエス様の十字架の贖いは、学校でイジメられている子や引きこもりの友だち、格差社会の中で、経済と将来に不安を抱えている友、
子育てに悩む若いお母さん、病気の不安を抱えている人、老後の孤独のお年寄りの方々に、私たちがイエス様への駆け橋となり、十字架の救いをお伝えできますように、お一人お一人を用いて祝福してください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

片柳福音自由教会。2019年3月3日礼拝メッセージ。

『 愛は多くの罪をおおう  ~ノアの失敗と子どもたち~ 』
旧約聖書: 創世記9章18~29節

9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤフェテであった。ハムはカナンの父である。
9:19 この三人がノアの息子たちで、彼らから全世界の民が分かれ出た。
9:20 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。
9:21 彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
9:23 それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。
9:24 ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知った。
9:25 彼は言った。「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」
9:26 また言った。「ほむべきかな、セムの神、【主】。カナンは彼らのしもべとなるように。
9:27 神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」
9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
9:29 ノアの全生涯は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

●序、「スヌーピーのライナスの安心毛布」私たちにも安全安心できる毛布が必要です。
箱舟を出たノアの息子たち、セム、ハム、ヤフェテから全世界の民は分かれ出ました。
人類は、もともと1つであったことがわかります。
セム、ハム、ヤフェテの子孫は、それぞれ異なった道を歩み始めることになります
。祝福と呪いの分かれ道となった事件が今日の出来事です。

●1.  ノアの失敗 「酒に酔って醜態をさらす」  (創世記9:20~21)

9:20 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。
9:21 彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。
大洪水後、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めました。そしてぶどう酒を造りました。
世界で最初のワイナリーとなりました。そのぶどう酒・ワインを飲んで酔っ払い裸になり、寝込んで大失態を犯します。

●(哀歌4:21)「楽しみ喜べ。だが、あなたにも杯は巡って来る。あなたは酔って自分の裸をさらす。」
皆さんに誤解をしてほしくないのです。ぶどう酒を作ること、お酒を飲むことは罪ではありません。
●イエス様は、ぶどう酒とパンで教会の聖餐式を制定されました。
使徒パウロも、弟子のテモテに(1テモテ5:23)「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」と勧めているくらいです。では何が、罪となったのでしょうか?

●ワインや酒を飲むことではなく、酒に酔うことです。お酒に飲まれ、自分を見失うほど泥酔することです。
(エペソ5:18)「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」 また教会の監督や執事の資格に「大酒飲みではない者」(1テモテ3:8)と語られています。

聖書は、他にも酒の害については何度も警告しています。
●(箴言23章29~35節)23:29 嘆く者はだれか。悲嘆の中にある者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。理由もなく傷ついている者はだれか。血走った目をしている者はだれか。
23:30 ぶどう酒をいつまでも飲み続ける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。
23:31 ぶどう酒が赤いとき、杯の中で輝くとき、滑らかにこぼれるとき、それを見てはならない。
23:32 後になると、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。
23:33 あなたの目は異様な物を見、あなたの心はねじれごとを語り、
23:34 海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。
23:35 「私は打たれたが、痛くなかった。殴られたが、知らなかった。いつ、私は目を覚ますだろうか。もっと飲みたいものだ。」

●マリファナや麻薬などの薬物やタバコと同じように、アルコールは依存性が高い飲み物のです。
ノアはもしかしたらアルコール依存症だったかも知れません。現在の日本でも、アルコール依存症の方が100万人います。
その予備群が1千万人いると言われています。特に若い主婦が、子育てや夫とのストレスを抱えて、台所で、お酒を飲む、キッチンドリンカーとなる人も増えています。お酒に酔って、自制心を失わない人はいません。お酒は、しばしば理性を眠らせます。お酒は羞恥心を失わせます。心の良心をおかしくさせます。
あの義人ノアが恥ずかしい姿で子供たちの目にさらすなんて想像もできませんでした。原因はお酒でした。

今日、多くの人がお酒で失敗し、仕事を辞め、家庭が崩壊し、人生が沈没した人々が沢山います。
ノアも、お酒で失敗して、子どもたちの前に醜態をさらしました。 私たちも注意しましょう。アーメンですか?

●2.  ノアの子どもたちの 「対応の違い」 (創世記9:22~27)

9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
9:23 それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って
父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。

ノアの息子セム、ハム、ヤフェテの3人の中で、父ノアの醜態に最初に気付いたのはハムでした。
ハムは、天幕の中で、素っ裸で酔いつぶれている父親のノアの姿を見ました。これはちらっと見たということではなく、じっと見たという言葉です。
おそらく淫らな思いを抱いて、父親の裸を見たのでしょう。
それを外に出て行って、他の兄弟たちに告げ口をしたのです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか?
自分の父親の醜態を他の人に言いふらしたのは、ハムの意地悪さから出ています。
ハムは、自分の父の弱さや失敗に心を痛めることなく、むしろそれを言いふらして自分の心の中で快感を味わっていたのではないでしょうか?
週刊誌やネットやテレビのワイドショーで人々のゴシップを楽しむのと似ています。でも、ハムは、自分の中にも父と同じような弱さや罪深さがあることを自覚していません。ハムの邪悪さは、自分の3男のカナンに引き継がれて行きました。

反対に、他の兄弟セムとヤフェテは、ハムとは全く違う対応をしました。
セムがリーダーシップを執り、セムとヤフェテは、上着を取って、自分たちの肩に掛けて、父ノアの裸の醜態を見ないように、後ろ向きに歩いて、父ノアの裸を覆ったのです。

9:24 ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知った。
9:25 彼は言った。「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」
9:26 また言った。「ほむべきかな、セムの神、【主】。カナンは彼らのしもべとなるように。
9:27 神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」

目覚めたノアの語った言葉から分かることは、ハムのしたことは厳しく責められ、セムとヤフェテのしたことは賞賛されているということです。
いったいここでハムのした事は、なぜ責められているのか?
それに対してセムとヤフェテがしたことが誉められているのは何故でしょうか?

私たちの感覚ではよく分からない所があるかもしれません。ハムは父の醜態を見て、それを覆い隠すのではなく、他の人に告げて、言いふらした。
つまり暴露したのにセムとヤフェテは父の醜態を、そっと覆い隠しました。しかも自分たちもそれを見ないようにして、父の尊厳を守ったのです。

●ハムと他の二人の間には、父ノアを敬う姿勢に違いがあるのです。これは、十戒の第五の戒めである「あなたの父と母を敬え」と関係があります。

両親を敬うとは、その人格と尊厳を守ることです。両親も神の前に罪人です。人としての弱さがあります。失敗や罪を犯します。
敬うとは、単に尊敬するだけではなく、その欠点や失敗を覆い、補うことです。父が弱さのゆえに酔っ払い裸で寝込んだ醜態をさらした失敗した姿を見た時に、そっとそれを覆い、父に恥をかかせないようにすることが子どもの思いやり、務めだと言えます。そういう意味で、ハムは責められ、セムとヤフェテは賞賛されました。私たちも「父と母を敬いましょう」その人格と尊厳を守り、思いやりの心を示しましょう!皆さんアーメンですか?

●結論 : 愛するとは、「多くの罪を覆うことです」 (第1ペテロ4:8)

(1ペテロ4:8)「 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

ハムは人の弱点を笑いものにして、自分と子孫に呪いを招きました。しかし、セムとヤフェテは、後ろ向きになり、父の裸を見ないようにして、着物で父を覆いい、自分と子孫に主の祝福を受けました。この上着こそ、イエス様の十字架の血潮です。人の弱点を笑わず、その人の人格と尊厳を傷つけることをしないで、愛を持って弱点を覆うことは、主イエス様に罪赦された者として相応しい歩みです。
私たちは、ハムのように人の欠点や失態を暴き、責め立て、辱しめようとする性質を持っています。
しかし、主は私たちの罪を知りながら、なおも愛してくださり、主の十字架の尊い血潮によって全ての罪を覆ってくださり、イエス様を信じる者を、全く罪がない者として見てくださいます。

●(詩篇32篇1~2節)
32:1 幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

ここで「罪をおおわれた」は「罪を覆い隠す、覆い消す」とも訳される言葉です。人間のすべての罪と汚れを、主ご自身が、御子イエス様の十字架の血潮で覆い隠してくださたのです。
「お認めにならず」は、「数え上げない」と訳される言葉です。「数えてみよ主の恵み」と私たちは賛美しますが、主はあなたの罪を数え上げようとはなさらないのです。イエス様の十字架の贖いによって、あなたのうちに罪を認めない主に感謝しましましょう!そして主があなたを見るように、
あなたも周りの家族や友、職場の同僚を主のまなざしで見て、弱さや罪を覆ってあげましょう!

例話:「神学生の時」神奈川県大和市にある妻の母教会・カンバーランド長老教会・高座教会で奉仕しました。その時、住友銀行にお勤めの長老さんがいました。F兄弟は、新支店を開拓し開設する責任者としていつも多忙の兄弟でした。彼の部下の一人がお酒とギャンブルでサラ金に多額の借金をして、会社にまでサラ金から返済を迫る電話が頻繁に来るようになりました。会社の幹部たちは、その人を首にするように長老の兄弟に迫りました。

しかし、F兄は祈り、部下の家庭を訪問し、本人と家族とも話し合い決断しました。会社の幹部に対して、「自分がすべての責任を負います。彼に立ち直るためのチャンスをください。」こうして部下の人は時間をかけて、アルコールを辞め、サラ金に返済し、妻と子供たちは実家から帰り、家庭が崩壊から救われました。
この長老のF兄弟は、会社の部下の弱さと失敗に自分の上着を覆い、部下の将来と家族を救いました。私は、非常に感動したことを今でも鮮やかに覚えています。

❶相手の失敗や罪を、あなたも暴かず、攻めず、辱めない。

❷相手の弱さに同情し、失敗や罪を、主が赦してくださったように、あなたも赦す。

❸相手の弱さや罪を、あなたが覆い、励まし、新しい愛と信頼の関係を主によって築いていく。

*今週、遣わされた所(家庭や学校、職場)で、互いに弱さや罪を覆い合うことを1つ実行しましょう!

お祈りいたしましょう。
「愛する主よ、今日のお友だちとの合同礼拝を心から感謝します。私たちは、ノアのように弱さや罪があり、誰でも失敗し罪を犯します。
しかし、イエス様は十字架の血潮によって私たちの過去、現在、未来のすべての罪を赦し、弱さと恥を覆ってくださいました。主に赦された者、愛されている者として、周りの家族・両親や子ども、孫、学校や職場の仲間の失敗や弱さを暴かず、責めず、辱めず、反対に赦し、励まし、愛と信頼の架け橋を築けますように、今週、聖霊様の助けにより、互いに弱さや罪を覆い合うことを1つ御言葉に従い実行させてください。主イエス様御名によってお祈りいたします。アーメン」