2024年1月7日 新年礼拝「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならない」

新年合同礼拝説教レジメ 

『 かめの粉は尽きず、壺の油はなくならない 』 

旧約聖書:第1列王記17章8~24節              片柳教会・主日礼拝

序.元旦礼拝では、列王記17章1~7節のみことばを受けた。預言者エリヤは、ケリテ川から、シドンのツァレファテのやもめの所に遣わされる。 イエス様が生まれる900年前、イスラエルは北と南に分裂し、北王国イスラエルの

7代アハブ王は最悪の王で、政略結婚のシドンの妻イゼベルは偶像のバアル信仰を持ち込んだ。

主は、預言者エリヤを通して3年間雨が降らないという神の裁きを宣言し、隣国フェニキアのシドンは飢饉となった。

1.    主は、あなたを養われる   (第1列王記17:8~15)

シドンのツァレファテは、アハブ王の妻イゼベルの出身地である。神の恵みが一滴もないような飢饉の中にあるバアル信仰の総本山のシドンに、主はエリヤを遣わされた。そこに主のご計画があった。ツァレファテの町の門の外でたきぎを拾い集めていたひとりのやもめにエリヤは声をかけた。「私に水を飲ませてください。そして一口のパンも持って来てください。」 このやもめは、貧しいシングルマザーで、息子と最後の食事を取り、死のうとしていた。

やもめは、かめの中に一握りの小麦粉と、壺にほんの少しの油しか持っていなかった。餓死寸前である。

しかし、主はこのやもめに、まず預言者エリヤを養わせる大切な使命を与える。やもめはエリヤの言葉通りに、まずエリヤにパン菓子を作った。やもめは、御言葉に従い、主を第一にして、自分たちの最後の食事を、まず神の預言者エリヤに、主に献げた。こうして御言葉に従う信仰が、やもめの家族と預言者をも生かすことになった。

主は、必ず、主に従う者を養ってくださる。 「あなたの神、主は生きておられる。」

 

2.主は、あなたを祝福してくださる   (第1列王記17:16)

御言葉の約束の通り、「かめの粉は尽きず、壺の油もなくならなかった。」 その結果、飢饉にも関わらず、2年以上、やもめの家族は生きることができた。 イエス様もやもめの信仰を賞賛している。(ルカ4:25-26)

主は、いつの時代でも、真実な信仰者を求めておられる。いつの時代も名もない人々の信仰とささげものを用いて主の働きは前進する。そして教会を用いて、家庭や社会が、国や世界が変えられていく。(参照:申命記8:1~10)

主は、必ず、主に従う者を祝福してくださる。 「あなたの神、主は生きておられる。」

 

3.主は、あなたの祈りに答える   (第1列王記17:17~23)

やがて、やもめのひとり息子が病になる。懸命の看病の甲斐もなく最愛の息子は死んでしまう。彼女は絶望する。

エリヤは「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、母のふところから子どもを受け取り、屋上の部屋に上がり、その子をベッドの上に横たえて、主に祈る。エリヤの祈りに、主は答えられて、この息子は、生き返る。主は、私たちの祈りに答え、体や心の傷を癒され、時には、死人さえ生き返らせる。主は、必ず、あなたの祈りに答えてくださる。

  • 結 論: 「 あなたの神、主は生きておられます 」   (第1列王記  17:12・24)

24節「その女はエリヤに言った。『今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。』」 やもめは、奇跡によって、主が生きておられることを知ったのではなく、主が祈りに答え、主の御言葉が真実であることを知って、神の御言葉に生きる信仰へと導かれた。あなたの主は、今も生きておられる。

主は、私たちの祈りに答え、家族を養い、学校や職場・教会を祝福される。だから、どんな困難や試練が襲っても、御言葉に従う事こそが祝福なのである。12節「主は生きておられます」(旧約ヘブル語で(ハイ・アドナイ)

「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならない。」 2024年を、この信仰で歩もう!         主よ、感謝します。

2023年4月23日 召天者記念礼メッセージ 『 召された聖徒たちの信仰に倣う 』            

聖書:ヘブル人への手紙13章5-8節

序.召天者記念礼拝は、共に礼拝を献げ、交わり、天に帰られた聖徒たちを覚え、私たちの希望を天に向けるために毎年行っている。仏教では冥福を祈り、供養をする。しかし、信仰をもって天国に行かれた方々は、冥福を祈る必要はなく、すでに天国での豊かな祝福の中にある。私たちは聖徒たちの信仰の証しを覚え、その信仰に倣いたい。 ヘブル書13章7節には、天に召された聖徒について「三つの命令」がある。この神の御言葉を受けたい。

1.  覚えていなさい  (へブル13:7)

❶  初代教会の指導者たちを

神のみ言葉を宣べ伝えてくれた信仰の指導者。へブル書では、直接的には初代教会の指導者たちのことである。

使徒たちは、世界宣教を行い迫害を受け殉教した。命をかけた信仰の指導者たちを覚えなさいという勧めである。

❷  片柳教会の指導者たちも

片柳教会の開拓伝道の宣教師・ハルストロム宣教師ご夫妻は、浦和教会の株分けメンバーの兄姉と1972年に開拓を始めた。ハスストロム師はわずか2年の働きで、初代牧師内田師にバトンを渡して、次の桶川教会の開拓に行かれた。17の福音自由教会を開拓し、天に帰られた偉大な主の働き人。指導者の信仰を覚え感謝しよう。

❸  信仰に歩まれた聖徒たちも

この片柳教会に導かれ、救われ、信仰生活を送り、教会の奉仕に忠実に励まれ、天に帰られた兄弟姉妹である。彼らの祈りの生活、奉仕、主への献身の証しから、未熟な私たちは、信仰生活のABCを教えて頂き、養われた。

2.  見なさい  (へブル13:7)

❶ ステパノの終わり方を

初代教会の最初の殉教者・ステパノは、すべてを見ていた迫害の首謀者サウロに大きな影響を与えた。やがて彼は、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い、キリスト者となり、全世界に福音宣教する使徒パウロとなった。

❷ 聖徒たちの最後を

「天国って素晴らしいところですよ。お先に行っています。天国で待っていますよ」と、微笑み、感謝、感謝と召された皆さんから、私たちは人生の晩年をどのように過ごし、どのように主に仕えるのか良き模範を見せて頂いた。今度は、私たちが、地上での信仰の歩みを全うし、神と人を愛し、神と教会、人々に仕える、信仰の生き様を遺そう。

3.  倣いなさい  (へブル13:7)

❶ 「信仰に」注目

私たちは主の御前に罪人である。キリスト者は主の十字架により、罪赦された罪人で罪がなくなったのではない。 自分の弱さ、罪深さを徹底的に認め、十字架の罪の赦しと救い、神の恵みによりすがるのが信仰である。

❷ 「倣う」こと

倣うとは、「真似をする」こと。 失敗し挫折しても、へこたれないで、主を見上げ、罪を悔い改めて、涙の中から、起き上がり、主を賛美する信仰に倣うのである。人間の限界をはっきりと認め、100%の信頼をキリストに置く信仰。

  • 結論: 「キリストと共に歩む」 (へブル13:5~6・8)

へブル書は、主イエス様は「昨日も、今日も、とこしえに変わることはない」お方であると宣言する。

「昨日」とは、私たちのための主の十字架の死と復活の救い、そして過去の家族や仕事の数々の主の恵みである。

昨日のことは語り易い。けれども、昨日のイエス様、今日のイエス様、そして明日のイエス様も、変わることがないと語るのは大変難しい私たちの信仰は、昨日生きて私たちを生かしたもうたお方は、今日も私たちと家族を生かしたもうお方であり、明日も生かしたもうお方ですと告白することである。こうして、私たちは、明日を心配せず、思い煩いから解放されて、今日も、明日も、真の神・主イエス様と共に元気に歩むことができるのである。   主よ感謝します。

2023年4月2日受難週『 十字架の下で、私たちは神の家族となる 』                             

聖書:ヨハネによる福音書第19章16−27節

序. 2023年WBCで日本チームが優勝した秘訣は「チームが家族となり兄弟としてのOneTeam」となったからと言われている。今週は「受難週」である。主イエス様は、ビア・ドロローサ(悲しみの道)を歩まれ、十字架に架けられた。この十字架の下にある全ての者に罪の赦しと永遠の命の救いの門が開かれた。十字架の下は、どんな人が集められていたのだろうか?

1.  4人のローマ兵たち  (ヨハネ19:23~24)

ローマの兵士はイエス様から引き剥がした上着を四つに分け、下着をくじ引きにした。兵士の数は4人であったことが分かる。彼らは、詩篇22:18「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。」という預言を成就させた。十字架の出来事を目撃した百人隊長たちは「この方は本当に神の子であった。」(マタイ27:54)と信仰告白へと導かれた。

 

2.  4人の女性たち  (ヨハネ19:25)

ヨハネは、群衆の罵声と怒号を全く無視するかのように、十字架の下で静かにむせび泣く、4人の女性を描いている。

4人とは母マリアとマリアの姉妹と、クロパの妻マリアとマグダラのマリアである。彼女らは、みな遠くガリラヤから主に従ってきた。12弟子の殆どがどこかに雲隠れしたのに、彼女たちは主の弟子として恐れることもなく、主の御声を何一つ聞き逃すまいとするかのように十字架の下にうずくまっている。 主の苦しい息の下から語られた十字架上の7つの言葉を聞いたのは、この4人の女性たちであった。主は、彼女たちの大胆な信仰を祝福して、十字架の真下という最も大いなる恵みの席に招待し、その上で世界最初の伝道者として用いられた。礼拝の最前列が恵みの席という意味がここにある。

3.   母マリアとヨハネ   (ヨハネ19:26〜27)

十字架上の主イエス様は、弟子のヨハネに母マリアを委ねた。この出来事は何を私たちに教えているのか?

マリアは本当に寄る辺ない女性なのか? 血縁関係で言えば、マリアには沢山の子がいた。それでもイエス様が敢えてマリアを弟子のヨハネに託されたのはどういうことか?十字架の下にある者は、血縁関係や人間の同情心を越えて、キリストにある教会の交わりへと導かれる。私たちは霊的な「神の家族」となるのである。これこそ教会のあるべき姿である。

  • 結論:  「 十字架の下で、私たちは神の家族となる 」  (マタイ12:48〜50・エペソ2:14~19)

現代の日本は『無縁社会』と呼ばれ、家族や地域との縁が絶え、人々は孤立して、年間3万人が孤独死している。146万人(人口の2%)の人たちが社会から孤立して引きこもっている。また『格差社会』の弊害で、学校も職場も、競争の群れと化して、お互いは仲間ではなく、ライバルにしか見えない。どこに行けば、人間は本当に人間らしく安心して互いの顔を見、語り合い、労り合うことができるのだろうか? 主イエス様は「私の下に来なさいと」と言われる。教会に来て、十字架の血潮を受けることなしに、罪赦され、癒され、救われて、人間性を回復し、崩壊した家族が再生する道はない。どんな境遇の人も、どんな弱さや病気や障害を持っている人も、すべての人は生きる意味と価値があり、主に愛されている尊い存在であり、私たちは、主イエス様を信じる信仰によって、愛し合う神の家族となるからである。 私たちの教会のビジョン『ミッションオアシス』の誰でも安心できる教会をめざして共に前進しよう。主よ感謝します。

2023年3月5日『 5つのパンと2匹の魚の奇跡 』                    2023年3月5日

聖書:マルコの福音書6章30~44節

序.伝道は、霊的にも肉体的にも、戦いが多く、疲れを覚える。そこで主イエス様は、弟子たちと休息を取ろうとされた。

1. 群衆を深くあわれまれたイエス様 (マルコ6:30~37)

主は弟子たちと舟に乗って、寂しい所で休暇を過ごそうとされた。ところが、群衆は先回りして待っていた。イエス様は、羊飼いのいない羊の群れのような群衆をご覧になり、心を痛め、かわいそうに思われた。それが牧会であり、教会の奉仕である。そこでイエス様は、みことばを教え、病を癒された。日が暮れ、辺ぴな所で、店もなく、空腹な群衆を弟子たちは心配した。ところが、イエス様は「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と命じられた。

弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」私たち日本の教会は、小さく、日本の貧困や格差、様々な課題をどうやって解決できるのかと悩み、恐れる。「人々を食べさせるには、200デナリ(200万円)もの、大金が必要なのに、どこにお金があるの?」弟子たちは困惑した。

信仰生活では、2つの狭間で苦しむ。自分の常識、経験と、主のみことばのチャレンジである。

主のみことばに、霊的な重荷、負担を感じる。主に従って行く時、このようなチャレンジを受けることがある。

 

2. 5つのパンと2匹の魚の奇跡  (マルコ6:38~44)

イエス様は、「パンはいくつあるか?」と聞かれ、弟子たちは、「パン5つと魚2匹」と答えた。子どものお弁当「5つのパンと2匹の魚」と5千人と何の関りがあるだろうか? 5千人もの空腹を満たすことなど不可能である。

  • 5つのパンと2匹の魚は、イエス様に献げられた

❶ イエス様は、「感謝をささげられた」

天を見上げて、感謝の祈りをささげられた。「奇跡を起こしてください」とは祈られなかった。なぜなら、奇跡はもう起こっていた。主の奇跡は、訪れていた。それが主の働き。現実には、まだ何も見えないが、奇跡は起こっている。だから「奇跡を起こしてください」とは祈らず、「主よ感謝します。」 と祈った。私たちは、信仰によって悟るのである。

❷ イエス様は、「パンを裂き、分けられた」

主が、パンを裂くと、またパンが生まれた。パンを貰った人が食べたらなくなってしまう。 でも分け与えると、また新しく与えられる。これが「分かち合いの奇跡」。自分だけが、食べれば、それで終わる。あなたが、握り締めれば、それで終わる。 手を開いて分け与えると、あなたの人生に花が咲き始める。 「分かち合う奇跡」は、豊かな実を結ぶ。

 

3. 5つのパンと2匹の魚の奇跡の結果 (6:42~44)

❶ みながお腹いっぱいになった

5つのパンと2匹の魚でお腹が一杯になり、人々は幸せを感じた。神の御言葉を食べると、私たちは幸せになる。

❷ 残ったパンと魚を捨ててはいけない

「残り物を集めなさい」主は贅沢と浪費を嫌われ、すべてを大切にして質素であった。「パン切れの精神」に学ぼう。

❸ 5千人が満腹した

男性だけで5千人、女性と子どもを入れて1万人が満腹した。「神に不可能はない」ことを意味している。マルコ8章にパンの奇跡がある。パリサイ人たちが非難する。信仰を持っている人たちは、信仰の奇跡を見る。しかし、信仰のない人たちは、何も見ることができない。毎日奇跡と祝福の中で過ごす人たちもいれば、何も得ることがない人もいる。

  • 結論 : 「 あなたの5つのパンと2匹の魚を、主に献げよう 」

❶主は今も奇跡を行われる  ❷信じる者には、信じる分だけ奇跡が起こされる。  からし種ほどの信仰があれば、驚くべき御業を見ることになる。あなたの5つのパンと2匹の魚を主に献げ、献身しよう。 やがて豊かな実を結ぶ。  主よ感謝します。

2023年2月5日『 あなたの信仰があなたを救ったのです  ~長血の女のいやし~ 』   

『 あなたの信仰があなたを救ったのです  ~長血の女のいやし~ 』

新約聖書:マルコの福音書5章21~34節

序.イエス様一行が再びカぺナウムに帰ると、群衆と会堂司ヤイロが待っていた。絶望的な病の奇跡の物語である。

1. 絶望的なふたり   (マルコ5:21~25)

ユダヤ教の会堂司ヤイロには12歳の一人娘がいて、その娘は不治の病に冒され、死にかけていた。ヤイロは、イエス様の足元にひれふして、必死に頼んだ。イエス様は、ヤイロの家に向かうことになった。ところが、24節、群衆が「押し迫って来た」(スンプニゴー συμπνίγω)は(押しつぶす・窒息する)という意味の言葉。ヤイロは気をもんだことだろう。その群衆の中に、紛れ込んで、ひとりの女が、イエス様に近寄り、ヤイロは進行を中断されてしまう。

2.   長血の女     (マルコ5:25~28)

この女は、12年間も、長血を患い、非常に苦しんでいた。医者の治療を受けても、かえって病状は悪化した。

全財産を使い果たした、気の毒な女性である。このような人は、私たちの周りにも見られる。努力すればするほど、罠にかかったように、事態が悪化する。病気だけではない。しかし、この女性には、希望があった。イエス・キリスト様の御名という希望である。心の中で「何度も、主イエス様の御名を呼び求めた。」 当時、長血の女は、汚れていると差別された。ツァラートの皮膚病と同じように、人々との交わりを禁じられていた。見つかると石打の刑に遭う危険があった。彼女は、イエス様に会いたい情熱が満ち溢れていた。群衆の中に紛れ込んで、イエス様に近づき、衣に触れた。「あのお方の衣にでも触れれば、きっと私の病気は直る」という思いが与えられていた。 私たちもこのような信仰が与えられたら幸いである。「主イエス様の御名を求め呼ぶ。」 これが信仰である。

3.   長血の女をいやされたイエス様 (マルコ5:29~30)

イエス様の衣に触れた瞬間、血の流れが止まった。彼女は、自分の体に起こった変化を直ぐに感じた。そしてイエス様も感じられた。しかし、弟子たちには理解でなかった。彼女は、恐れおののき、イエス様の御前に、ひれ伏して、真実を告白した。ここに本物のクリスチャンと、そうでない人との違いがある。教会の礼拝に来て、メッセージを聞いても、聖書を読んでも、何だかわからない。自分と関係がないからである。しかし、ある人は、神のみことばが自分の心の中に入り、聖霊様の感動が湧き上がり、自分が変えられて、喜びが溢れ出て、いのちの芽生えを感じる。

この女性は、自分の体の中で起きている事実を告白した。私たちも、自分の中で起きている変化を主に告白しよう。

  • 結論: 「あなたの信仰があなたを救ったのです」 ~主は3つの祝福の言葉を与えた~

❶ 「あなたの信仰があなたを救ったのです 」

主は素晴らしい祝福を与えた。「あなたの信仰が、あなたを癒した」ではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と主は語られた。不治の病の癒しよりも、また、絶望的な病の癒しよりも、もっと驚くべき癒しは、あなたの救いである。

「あなたは救われた」 これこそ希望であり、永遠の価値ある宣言である。救われた者は、永遠の命を受ける。

(ローマ10:13 )「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」 たとえ、あなたの問題や家族のことが解決できなくても、「あなたは救われた」という言葉を、イエス様から聞いたなら、どれほど価値ある祝福であろうか。

❷ 「安心して帰りなさい」

「複雑な人間関係も、お金も、この世の因縁も、すべてから解放された。あなたは自由だ」 これがイエス様の宣言である。(ガラテヤ書5:1) 「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」 私たちは安心して、歩んで行くことができる。

❸ 「苦しむことなく、健やかでいなさい」

病人にとってどれほど大きな励ましだろうか? これからはあなたは病人ではない。あなたは病魔から解放された。

ここから立ち上がり、自分の足で歩くのだ。これからは健やかになるであろう。あなたは病から自由となった!

私たちへの祝福のみことばでもある。信仰をもって、この祝福を受け取ろう!             主よ感謝します。

2023年元旦礼拝メッセージ 『 あなたの口を大きく開けよ 』 

旧約聖書:詩篇81編1~10節

序.新年あけましておめでとうございます。コロナのパンデミックの第8波の中で、新年を迎えた。苦しみがあるからこそ、主に期待しよう。出エジプトの荒野の旅路を記念する「仮庵の祭り」の9月がイスラエルの新年である。詩篇81篇は、「賛美の招き」と「主の呼びかけ」の2部構成である。イスラエルの新年の賛美のみことばを元旦に受けよう。

1.   主への賛美の招き  (詩篇81:1~5)

1節「喜び歌え、喜び叫べ」と主に向かって、喜びをもって力の限りに賛美せよと、神の民を招いている。

3節「私たちの祭りの日」とは、新年の「仮庵の祭り」である。 「仮庵の祭り」とは、イスラエルの三大祭りの一つで、モーセに導かれて、奴隷の地エジプトを脱出して、約束の地カナンを目指す40年間の荒野の旅路を記念した。

その旅の中で「神の律法」がモーセを通して与えられたことを想起する祭りでもあった。現在の9月15日頃、木の枝で仮小屋を作り、そこで寝起きをして感謝の供え物をしてお祝いした。5節「私は、まだ知らなかったことばを聞いた」 「ことば」は、ヘブル語「シェファト」(hp’f’)で「くちびる」という言葉である。「神のみことば」を「聴く」という意味である。

2.   主の呼びかけ   (詩篇81:6~9)

エジプトを脱出し、荒野の40年の間、神の民は、苦しみ、叫んだ。民が叫ぶと、主は、力強い御手で、助けて下さったことを想い起すようにと、民に呼びかけている。7節「メリバの水のほとりで、あなたを試した」とは、出エジプト記17章で「マサあるいはメリバ」という場所で、飲み水がなくなり、民は不平不満を呟き、モーセと争った。モーセは岩を杖で打ち、主が水を与えられた。民が、そこで主を試み、モーセを石で打ち殺そうとした所である。「マサ」とは「試み」、「メリバ」とは「争い」という意味である。コロナ禍3年間は、私たちにとっても、「大きな試練であり、苦しみの時」であった。7節「あなたを試した」。主は、神の民の信仰と従順を試された。9節「異国の神を拝んではならない」と、真の神のみ礼拝しなさいと命じた。荒野の岩から水が与えられたように、岩なるキリスト様が、私たちの必要を満たしてくださる。

3.   主の溢れる祝福へのチャレンジ                   ~あなたの口を大きく開けよ~ (詩篇81:10)

10節「わたしはあなたの神、主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。」 主は、ご自分の民として選び、豊かに施したい、祝福したいと願われている。それなのに、イスラエルの民が心を頑なにするので、主が用意された祝福を十分に味わうことができていない現状を、主は悔しがっておられる。私たちは、キリストにある神の霊的祝福を十分に享受しているだろうか?もし、私たちがイスラエルの民と同じように不従順と不信仰の道を歩むなら、主が用意された素晴らしい祝福を十分に味わうことはできない。

しかし、私たちが信仰をもって大きく口をあけるなら、主はあなたの大口を満たしてくださる。 「口を大きく開けよ」は、ヘブル語「ラーハヴ」רָחַבで、旧約では25回(詩篇6回)使われている。口を大きく広げることは、「口」だけでなく、「心を広くする」ことでもある。あなたの心の自由、解放、寛容さ、ゆとりを意味する。 「口を大きく開けよ」(ラーハヴ)は、主が今年、あなたにどんな良いことをしてくださるのか、ワクワク、ドキドキしながら期待する言葉である。(例話:「口を開いた雛」は、親鳥がエサを捕まえて帰って来ると、巣の中で、精一杯口を開ける。口を大きく開ければ、開くほどに、えさをたくさん食べられる。)   (例話:「ジョージ・ミューラー(1805~1898年)の証し 」

  • 結論: 「 あなたの口を大きく開けよ! 」

聖書は、主の祝福を受け取るには、求める心が大切だと語る。ひな鳥が、大きな口を開けて、親鳥を待っているように、熱心に主を待つなら、主は豊かに恵みを与えてくださる。今年、様々困難の中にあっても祈りつつ、ひな鳥やジョージ・ミューラーのように大きく口を開き、主を期待し、御言葉を読み、毎朝、一日をスタートしよう。主よ感謝します。

『あなたの名前を呼ばれる主』 ヨハネによる福音書20章11~18節 片柳福音自由教会

説教レジメ『あなたの名前を呼ばれる主 ~復活の証人マグダラのマリア』  2021年4月11日

聖書:ヨハネによる福音書20章11~18節

片柳教会・主日礼拝

序.復活の最初の証人となったマグダラのマリア。なぜ選ばれたのか? 復活のみことばを受けよう。

 

1.主に愛されたマグダラのマリア (ヨハネ20:1・ルカ7:36~48)

イエス様は、十字架で私たちの罪を背負い、死なれ、3日目に復活された。死は終わりではなく、永遠への入口となった。イエス様の復活の体は、新しい完成された体、永遠の命。イースターは、希望である。

マグダラのマリアは一番最初の復活の証人として登場する。2千前、女性は裁判で証人となる資格が認められていなかった。新しい時代の到来。このマグダラのマリアは、どんな女性であったのか?

(マルコ16:9) 「さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。」

中世のローマ教皇グレゴリウス1世は、「七つの悪霊」とは、「七つの大罪」、すなわち、①姦淫②大食③貪欲④怠惰⑤激怒⑥妬み⑦高慢で、これらの罪から解放されたと理解した。聖書では7は完全数である。

悪霊に支配され、肉体も心もボロボロのマグダラのマリアの人生は、どれ程悲惨な人生であったことか?

悪霊に縛られて、地域の共同体からも村八分となり、人々からも見捨てられ、何の希望もないマグダラのマリアの前にイエス様が現れて悪霊を追い出し、心も体も癒され、人生は一変した。(ルカ7:36~38)

新しい人生を与えて下さったイエス様に心からの感謝と主への献身を表すために、泣きながら、イエス様の足を涙で洗い、髪の毛でぬぐい、足に口づけし、嫁入り道具として大切に蓄えて来た香油の香水を、惜しげもなく注ぎ、イエス様への愛と献身を表した。

聖書の中でこのように、イエス様に罪の赦しと感謝を、自分の持てる全財産を持って感謝を表した女性がもうひとりいます。ベタニアにマリアです。これら二人の女性に共通するのは、罪赦されて、主に愛されて、新しい人背を与えられました。そして、いつもイエス様の側にいて、イエス様の御言葉の教えに耳を傾け、主のために喜んで仕える人です。このようなマグダラのマリアだからこそ、イエス様の復活の最初の目撃者、証人として選ばれ、用いられたのではないでしょうか? 私たちもマグダラのマリアのような愛と献身を主にささげましょう!皆さんアーメンですか?

  • 2.  主に名前を呼ばれたマグダラのマリア (ヨハネ20:11~16)

マグダラのマリアは、空っぽの墓を覗き込み、イエス様の遺体は盗まれたと勘違いして嘆き、涙していました。白い衣を着た天使がマリアに言いました。「なぜ、泣いているんですか?」

私たちも同じ過ちを犯しますね。ある出来事で失望し、落胆する時、そこに捕らわれて、そこから抜け出せなくなります。いつまでも、過去の出来事に心が捕らわれています。

マリアも、ずーと空っぽの墓を何度も何度も覗き込んで、それ以外を見ようとはしません。

とうとう、しびれを切らした復活されたイエス様が、後ろからマリアに呼びかけられました。

「マリア!」懐かしい、聞きなれたあの優しいイエス様の御声です。思わず、マリアは後ろを振り向て、いつものようにイエス様に答えます。「ラボニ!(先生!)」

聖書の神、まことの神様は、私たちひとりひとりを名前で呼んでくださるお方です。

十羽ひとからげではあります。毎日世界の人口は22万人増えています。現在78億人の中で、あなたのことを愛されて、尊いかけがえのない、大切な存在としてあなたの名前を呼んでくださるのです。

 

  • イザヤ 43:1 「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの』」

イエス様は、あなたを愛しておられます。あなたの罪を十字架で赦されました。そしてあなたの名前を呼んでおられます。私たちは主のものです。あなたは主のものです。皆さんアーメンですか?

  • 3.  主は、今生きておれる (20:17~18)

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

死んでしまって、もうダメだと嘆いていたマリアにイエス様は優しく名前を呼んだのです。

皆さんが、もし、マグダラのマリアでしたら、いかがでしょうか? 懐かしいイエス様の御声を聞いたマリアは、思わずイエス様に飛び込んで、足下に抱きつきたい。ところが、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」と言われました。どうしてでしょうか?

なぜ、このような一見、冷たい態度をイエス様はお取りになられたのでしょうか?

ここに新しい時代の到来があるのです。新しい関係の始まりです。復活されたイエス様は、目で見たり、手で、イエス様の顔や手足に触って、あ~やっぱイエス様だ! と確認したい私たちです。

復活のイエス様は違います。昔のように、いちいち、目で見て、手で触らなくても、イエス様は、「私は、今も生きているんだよ。そして、いつでも、あなたと共にいるよ~。だからマリアよ。あなたは、わたしの兄弟たちの所に行って、このことを伝えなさい。」と語られました。

 

  • 結論:「主の手のひらにあなたは刻まれています」(イザヤ49:16)

 

(イザヤ 49:16) 「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」

新しい時代の到来の約束です。復活のイエス様は、いついかなる時も、あなたと共にいます。

皆さん、暗い夜道を、一人で歩いていると、不安な気持になりますね。

ところが愛する人や、力強い人と一緒なら、暗い夜道も気にならないばかりか、反対に楽しいひと時となります。人生も同じではないでしょうか。愛する同伴者がいると人生は心強く、また喜びと希望に満ちたものになるでしょう。

  • 昔、ニューヨークのダウンタウンの街角に一人の女の子が立っていました。ドラッグや食べ物のために売春のために自分の体を売っていたのです。彼女は、親から虐待されて、育ちました。彼女は愛されずに成長し、自分を大切に思えなかったのです。でも彼女に声を掛けて、名前を呼んで友達になり、イエス様を紹介してくれる人たちがいました。こうして彼女は、イエス様に愛されている自分を知り、イエス様を信じました。新しく生まれ変わった彼女は、同じ街角に立ち、今度はイエス様を伝え始めました。そこに昔の客がやってきました。彼女をののしり、「お前なんか、イエスが手を振ったらすぐに振り落とされてしまうだろう!」ってあざけりました。彼女はにっこりと笑顔で答えました。「大丈夫なの。私はイエス様の小指です。私はイエス様といつも一緒だから、どんなことが起こっても大丈夫ですよ」

あなたが、受験の時も、病の時も、試練の時も、愛する者と死別したり、別れたり、悲しみの時も、仕事で苦労する時も、経済的に厳しい時も、年老いた時も、いついかなる時にも復活のイエス様は共におられます。ご安心ください。

  • 多くのクリスチャンが、様々な人生の困難な中で、愛唱する聖句があります。それは、神が共にいることを、強く訴える約束の御言葉です。

(イザヤ 41:10)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

主は、あなたとあなたの家族の人生と共に歩まれ、あなたを強くし、あなたを助け、あなたの人生に勝利を与えてくださるのです。それは、「世の終わるまで」です。あなたの人生が時まで、どんな状況にあろうとも、共にいてくださるのです。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「復活の主イエス・キリストの父なる神様、素晴らしい主の御名を賛美します。イエス様が十字架で私たちの罪と咎を背負い裁きを受け死なれ、三日目に復活をされ、今も生きておられうこと感謝します。マグダラのマリアのような愛と献身をもっておひとりおひおりが主にお仕えできましょうに。私たちを、名前を呼んで、愛してくださり、イエス様を信じる者に、罪の赦しと永遠の命が与えられている事に感謝します。そればかりではなく、復活の主は、いついかなる時も、私たちと共にいますことに心から感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」

 

恐れと喜びのイースター 2021年4月4日 マタイの福音書28章1~10節

イースター説教レジメ 『 恐れと喜びのイースター 』            2021年4月4日

新約聖書:マタイの福音書28章1~10節

序. イースターおめでとうございます。新学期を迎え、あなたの心は、喜びですか?それとも不安と恐れですか?

弟子たちは、恐れでいっぱいだった。主の十字架の死は、すべての希望を打ち砕き絶望をもたらした。

弟子たちは、ゲッセマネの園で、主が逮捕され、恐怖に怯(おび)え、逃げてしまう。女たちは、最後まで主に従い十字架の死を見届け悲しみに包まれた。今、全世界は、コロナ禍で悲しみと恐れに包まれている。イースターの朝、弟子たちは恐れから喜びいっぱいに変えられた。イースターの御言葉を受けよう。

1.   復活の朝の 「恐れと喜び」  (マタイ28:8)

イースターの朝、「女たちは、恐ろしくはあったが大いに喜んだ」(8節)という不思議な御言葉が語られている。

「恐れ」と「喜び」という二つの感情が一つにされている。これが、復活を知った人間の反応である。復活の主に出会い、恐れは、喜びへと変えられた。そして喜びにあふれて、復活を伝えるために走り出した。

2.   復活の朝の 「おはよう」  (マタイ28:9~10)

復活のイエス様は、女たちに「おはよう」と言われた。イエス様の一番最初の言葉が「おはよう」という日常生活の挨拶だった。新約聖書の原語ギリシャ語は(カイペテ)で、「ごきげんよう。おはよう!」と言う意味の言葉である。

復活の後、イエス様は、弟子たちと朝ごはんを食べられた。(参照:ヨハネ21:12~13)日常生活の中にある大切なことを示された。コロナ禍の中で、困難な日々が続くが、私たちも日常生活を大切にしよう。困難な時こそ、お互いに「おはよう」と挨拶して、交わりを保つことは本当に素晴らしいことである。

  • 結論: 「あなたも、恐れることはありません」 (マタイ28:10)

イエス様は「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」と言われた。(28:10) 主は「恐れることはない」と今朝、私たちにも語られている。なぜ、恐れる必要がないのか? それはイエス様が、あなたの罪の身代わりとなり、十字架の上ですべての罪を処分して、あなたを死から命へと移してくださった。イエス様を救い主と信じる者に永遠の命を与えられた。十字架の道が苦難の道であったように、どんな苦難の道も、イエス様が与えてくださった永遠の命へと続いている。そして、復活の主は、いついかなる時にもあなたと共にいてくださる。このことを覚えて、イエス様の復活の喜びと永遠の命を伝えて行こう!

  • 例話:『伝道者の岸義紘先生の証』 岸先生が10歳の時、ひいおばあさんが80歳を過ぎて、いよいよ最期が近づいたある日、母と祖母を枕元に呼びました。「私は死んだらどうなるんか、分からんのじゃ。神主さんに聞いたが、神主さんも、『岸さん、そこだけはじゃなあ、分からんのです。』と言われたんじゃ。ところで、あんたらの方では、そこはどうなっとるんかなあ。」 そこで、母と祖母は飛び上がらんばかりに喜んで「おばあさん、私らの方ではなあ、死んだらその日のうちに、すぐに復活の世界、天国に入ることが決まっとるんですよ。イエス様が十字架の上で、強盗の一人に約束されたんです。『今日、あなたは、私といっしょに、パラダイスにいる』。おばあさん、クリスチャンは全員がじゃなあ、その日のうちに天国に行けることが、決まっとるんです。」そうしたら、ひいおばあさんが「そういうことなら、私もじゃなあ、あんたらの方へじゃなあ、信仰を移らせてもらいてえがなあ。」こうして信仰を告白したひいおばあさんはふとんに寝たままで、洗礼を受けました。その日の夜、枕元にお姉ちゃんと僕を呼び「おばあちゃんは、もうすぐ、イエス様の天国に行くんじゃ。天国はええところらしいから、あんたらも、早う来られよう」 その後、ひいおばあちゃんは、天国に召されました。僕は、子どもながらに、天国は遠いところじゃなく、何かすぐそこにあるような気持ちになりました。

ハレルヤ! イースターは、恐れの中で、大きな喜び、永遠の命の喜びに満たしてくださる。   主よ感謝します。

互いに足を洗い合う 2021年3月28日 聖書:ヨハネの福音書13章4~5・12~15節   

受難週・説教レジメ『 互いに足を洗い合う 』  2021年3月28日

聖書:ヨハネの福音書13章4~5・12~15節

序.今週は、「受難週」である。木曜日の最後の晩餐で、主が弟子たちの足を洗われた御言葉を受けよう。

1. 主は、弟子たちの足を洗われた (ヨハネ13:4~5)

イエス様は、最後の晩餐の席上で、席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始められた。当時、人の足を洗うのは奴隷の仕事であった。主は、12人全員の足を洗われた。イスカリオテのユダもいた。

2. 主は、弟子に模範を示された  (ヨハネ13:12~15)

イエス様は、再び席に着かれると、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」と模範を示された。受難週の木曜日「洗足式」を行い、お互いに足を洗い合う教会もある。主が語られた「互いに足を洗い合いなさい」には、もっと深い意味がある。日本語にも「足を洗う」という言葉がある。仏教から生まれた言葉で、一般には、悪い生活を止め、まっとうな生活へと立ち返ることを意味している。しかし、主の御言葉は、それとは異なる。主は、人間の足が土埃りで汚れているように、人間の心もさまざまな罪で汚れている、だから、足を洗うように、その心の汚れも洗い落とさなければならないと教えられた。

普段の私たちは、人の醜い身勝手な行動、汚い言葉、そのような汚れを見て、どう思うか? 心の中で、裁いたり、実際に非難し、結果、互いにいがみ合うことになる。 しかし、主は、むしろ、その汚れを率先して取り除くことによって、互いに赦し合い、愛し合うことで、互いの徳を高め合いなさいと教えた。過ちを犯した人を咎めるよりも、赦しなさい、むしろ愛をもって接し、相手の心にある汚れを取りのぞきなさいと語られた。人間の心の汚れは、赦されることによって、また愛されることによってしか、本当には取り除かれない。この後、イエス様は捕えられ、十字架にかけられて処刑された。それは、罪ある私たちの身代わりとなって、十字架に架けられ、罪ある私たちを赦し、罪の捕われから解放するためであり、愛することによって、人々の罪を取り除くためであった。イエス様は、その愛を、十字架の前夜、弟子たちの足を洗うということによって、予め示された。

教会は、これを記念して、受難週の木曜日を「洗足の木曜日」と言う。主の十字架の出来事を見上げるとき、互いの足を洗い合う生き方を改めて想い起す。互いに足を洗い合おう。

  • 結論: 「私たちも、自己犠牲の愛で、赦し合い、励まし合う」

年次総会は、教会のスタートラインである。今、私たちに必要なものは、イエス様が示された愛ではないだろうか?それは、<自己犠牲の愛>。この<犠牲の愛>なくして、主の教会は建て上げられない。他人事でもなく、誰かの教会でもなく、自分の教会、私の神の家族として、教会で奉仕し、主への献身と愛をもって、仕える、今日をそのスタートラインとさせて頂こう!「互いに足を洗い合いなさい」、この主の御言葉を心に抱いて、主の愛の心を、わが心として、教会生活で主の豊かな祝福を受けよう!

《2021年 受難週のカレンダー》  御言葉を読み、主の十字架の御苦しみを辿り、黙想しましょう。

▼28日(主日)主のエルサレム入城・ベタニヤ泊 (ヨハネ12:12〜19、マタイ21:1〜17) ▼29日(月)ベタニヤ発・いちじくの木呪う、エルサレム神殿・宮きよめ(マタイ21:18〜22、マルコ11:12〜19) ▼30日(火) いちじくの木枯れる、宮で最後の説教(権威論争・悪い農夫の譬え話・王子の結婚披露宴の譬え話・カエサルへの納税論争・復活論争・一番大切な戒め・ダビデの子論争)やもめの献金、終末の教え (マルコ11:20〜13:37、マタイ21:23〜25:46、ルカ20:1〜21:38)▼31日(水) イエスの殺害の陰謀とユダの裏切り(マタイ26:14〜16、マルコ14:1〜11)

▼1日(木) 過越しの準備を命じる。最後の晩餐ゲッセマネの祈り。イエス様の逮捕。カヤパの官邸。 (マタイ26:17〜75、マルコ14:12〜72、ルカ22:7〜65、ヨハネ13章〜18章) ▼2日(金) ピラトがイエス様を十字架につける。葬られる。  (マタイ27章、マルコ15章、ルカ22:66〜23:55、ヨハネ19章)▼4日(主日) ハレルヤ! 主イエス様はよみがえられた。                        主よ感謝します!

主の御前に出る ~ヤコブの選択~ 2021年3月21日 創世記46章1~7節

説教レジメ『 主の御前に出る ~ヤコブの選択~ 』 2021年3月21日

旧約聖書:創世記46章1~7節

序.春は新しい出発の時、不安や恐れを感じる。ヤコブの生涯から主の御心を知る事の幸いを覚えよう。

1. 主の前に出るイスラエル(ヤコブ) (創世記46:1)

父ヤコブは、息子のヨセフに会うために、一族でエジプトへと出発した。べエル・シェバに来た時、祭壇を築き礼拝した。かつて、祖父アブラハムも父イサクも、飢饉でエジプトに下り、王を恐れ、妻を妹と偽る失敗を犯した。ヤコブはそれを想い出して、未知の国エジプトに下ることを恐れた。アブラハムも(創世記21:33)、イサク(創世記26:23-25)も、べエル・シェバで祭壇を築き、祈り、礼拝した。ヤコブは、主の祝福を何よりも求めた人であった。ヤコブはわが子に再会することが、主の祝福を失うことになるなら、会う訳にいかないと考えた。私たちは、子どもや家族のことよりも、主を礼拝することを優先し、主の祝福求めているだろうか? 新しい出発の時、人生の岐路に立つとき、迷う時、主の御前に出て、主のみこころを求めよう。

2. 主のみこころを確信するイスラエル(ヤコブ) (創世記46:2~3)

主は夜の幻の中で、ヤコブに現わされて、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。」と励ました。聖書では、エジプトは、しばしば肉の国とされ、そこに行くことは神への反逆と語られている。しかし、エジプトに下ることが悪いのではない。主のみこころによらないで、かってにエジプトに下ることが悪いのである。 私たちが、主のみこころを確信して、遣わされて行くことが大切である。

3. 遣わされる地で祝福となるイスラエル(ヤコブ)(創世記46:3~4)

恐れと不安のヤコブに、主は『エジプトで、あなたを祝福し、大いなる国民にする。』と約束し、やがて必ず再び連れ戻す保証も与えられた。「何があったとしても、主が一緒だ!」この確信があれば、怖いものはない。もし、今、あなたに迷いや不安があるなら、『主よ!』と主の前に出て、確信が与えられるまで、祈ってほしい。あなたの場所は主のみこころにより、遣わされた所だからである。その信仰を持って歩もう。

(第3版・エレミヤ書29:7)「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」主に遣わされた所で、私たちはそこの祝福を祈れと求められている。偶像崇拝の地、呪いの地と思われるエジプトで、イスラエルの民は祝福の基となり、増え広がっていく。異教社会の日本で、あなたが遣わされている場所(家庭・学校・職場)で、あなたは、人々の祝福を祈り、心から仕えて行く時に、祝福の基として用いられる。あなたは祝福の基となるのである

  • 結論: 「あなたも主の御前に出よう!」

❶ 主に立ち返る(イザヤ30:15)

もし、あなたが不安になったり、迷った時には、この御言葉を思い出して欲しい。私たちが、不安に感じる時は、大体、主から離れている時である。だから「主に立ち返える」「静まる」そして「主を信頼する」主にゆだね、「あなたは力を得る」。苦しみの時、思い煩いで心が一杯の時も、主に立ち返って、静まろう。

❷ 主の前に出る (詩篇25篇8~12節)

主を恐れる者に、主はその行くべき道を教えて下さるという約束のみことばである。(イザヤ書 30:21)『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。』主の御前に出て、静まり、主の御声を聞き、みことばを受けて、歩もう。     主よ感謝します。