創世記 4章 11節〜24節
母の日の礼拝 『母マリアの信仰 ~レット・イット・ビー~ 』
1.マリアへの 「祝福」 (ルカ1:26~31)
2.マリアの「レット・イット・ビー」 (ルカ1:34~38)
結論: 『レット・イット・ビー(おことばどおり、この身になりますように)』
子供祝福式が行われました
子どもの日『子どものように神の国を受け入れる』
2019年5月5日
新約聖書:マルコの福音書10章13~16節
片柳教会・主日礼拝
10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
序。今日は「子どもの日」です。日本の子どもは? 総務省の統計によりますと先月15歳未満の子ども人口は1533万人で前の年より20万人減り38年連続の減少しています。全体の人口の中で12.3%です。先進国の中では、一番子供がいない国です。まさに少子化です。今日は、このどもの日に合わせて。イエス様と子どもから御言葉を受けましょう!
1. 子どもの「祝福を求めてきた人々」(マルコ10:13)
10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
この記事は、マルコだけではなく、マタイ18章、ルカ18章にも記録されています、ですからとても大切な御言葉です。マルコは子どもと書いていますが。ルカでは、幼子(乳飲み子)と書かれています。赤ちゃんから小学生位までの子どもたちであったことが分かります。沢山のお父さんやお母さんがイエス様にさわっていただこうとして、子どもたちを連れてきました。触ってもらうというのは「手を置いて祝福していただくこと」です。生まれた子どもが健康で元気に育ち、幸福になるようにとは、いつの時代にも親の共通の願いです。病人を癒やしたり悪霊を追い出す力を持っているイエス様に祝福してもらって、子どもの健やかな成長するようにと、赤ちゃんも子どもたちも連れて来たのです。
しかし、弟子たちは、子どもと連れてきた大人たちを叱りました。 イエス様は、大人の相手をするだけでも忙しくて大変なので、これ以上煩わせてはならない、と思ったのかも知れません。あるいは、子どもたちが騒いだり、赤ちゃんが泣き叫んでイエス様のお話の様の邪魔になると思ったのかも知れません。
いずれにせよ弟子たちはこの親たちを叱ったのです。ところがイエス様の思いは弟子たちとは反対でした。
2.子どもを「イエス様のところに来させなさい」 (マルコ10:14)
10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
イエス様は、憤って、お怒りになったのです。イエス様は、「子どもたちを私の所に来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」とおっしゃいました。「来させなさい」は、直訳すると「来ることを許しなさい」です。「妨げてはならない」とおっしゃったのです。イエス様は、赤ちゃんも子どもをご自分の所に招いておられます。それを妨げ、子どもたちが来るのを邪魔することは、イエス様に敵対することになるのです。皆さん、私たちも子どもたちを主のもとに連れて行きましょう!アーメンですか?
3.子どものように「神の国を受け入れる」(マルコ10:15)
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
私たちがこの御言葉から学ぶべきことは何でしょうか?イエス様は子どもが好きだった。もちろん大好きでした。子どもに優しかったからという単純な理由ではありません。イエス様は、神の国に入ることができる人は誰かを語っておられるのです。神の国とは、神の支配という意味です。主の支配する「神の国」とです。主を信じ従う神の民の救いが完成する所です。「このような人でなければ神の国に入ることはできない」と言うことです。神の救いにあずかることができるのはどのような人でしょうか?
それは、「子どものように神の国を受け入れる人」です。
これはもちろん、救いは、神の国は、子どもしか入れない、「はい、あなた大人はダメダメ」と入り口で追い返される、そういうことではありません。 では、「子どものように」とはどういうことでしょうか?
「子どものように純真な汚れを知らない人」ということでしょうか? そうではありません。
そもそも、子どもが純真で汚れを知らない、なんてことを聖書は語っていません。アダムの堕落以来、人間は子どもの時から主に背き逆らい、我がままな自己中心です。ですからイエス様がここで「子どものような人」と言っておられるのは、「子どものように罪のない純真な者」ということではありません。
15節の「子どものように神の国を受け入れる人」です。神の国を受け入れる、それはつまり主イエス様によって既に実現している神の恵みのご支配、救いのみ業を信じて受け入れることです。
子どもは、親や教会学校の教師の言葉を素直に信頼して受け入れます。親が言うんだから、先生が言うんだから間違いはない、という素直な信頼です。そのような信頼をもって、イエス様によって神の国が実現しているという福音の言葉を信じて受け入れる者こそが、神の国の恵みにあずかる人です。
例話
脳腫瘍のために、僅か11歳で天に召された雄基君という子のお話です。牧師家庭に生まれた雄基君は、小さい頃からいつも、ご両親からイエス様のことを聞いていました。
3歳の時、お母さんが「イエス様はね、雄ちゃんの罪のために死んで下さったんだよ」と話したら、とっても感動して「イエス様ありがとう!」と言うようになったそうです。4歳の頃には、「僕は、神様のことを伝えるために生きている」と言い出して、2歳の弟に、「僕たち、何のために生きているか知ってる?・・・生きているのは意味があるんだよ。僕たちはイエス様の事をみんなに伝えるために生きてるんだ。」
さらに、「僕は、(大人になったら)トラクトを作って世界中に配る人になる。いろいろな国を旅して世界中の人に配るんだ。僕は、世界中の人がイエス様を信じて天国へ行って欲しいんだ。」と言うようになりました。そんな雄基君は、小学生になったら洗礼を受けたいと言い始めたそうです。でも、まだ早いと思ったお父さんは、「水に潜れるようになったらね」と受け流したそうですが、なんとお風呂場で一生懸命に水に潜る練習をし始めたっそうです。そしてついに水に潜れるようになって、洗礼を受けることになったのです。
そんな時、雄基君に脳腫瘍が見つかったんです。そして、手術はしたものの、「あと三年の命です」と言われました。しかも、手術の後に非常に苦しんで、ただただ唸って横になってるばかりだったそうです。
そんな雄基君のために、お父さんがベッドのそばで讃美を歌ってあげると、突然雄基君が口を開いてこう言ったそうです。「イエス様は、僕のために死んで下さったんだよね。だったら僕、がんばる」と…。
けれども、病気はどんどん進み、やがて、耳が聞こえなくなり、立つことも、歩くことも出来なくなりました。それなのに、雄基君はいつも、神様にこうお祈りしていたそうです。「神様、今日も僕の体を守って下さって、ありがとうございます。」 もし、大人だったら、果たしてこんなふうに言えるでしょうか?こんなふうに、素直にイエス様のことを信じて行けただろうかと思います。まさにこれは、「子どもならではの尊い信仰です。」「子どものように神の国を受け入れる」というのは、こういうことを言うんだなあと思うんです。
結論: 「あなたも子どものように信じる者となる」
❶ 親の務めを果たす
10:14「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」
私たちは赤ん坊が生まれる時、必ず病院の産科に連れて行きます。また熱があり病気の時は、病院に連れて行きますね。赤ちゃんが自分から、「お母さん、病院に行こう」と言い出すことはありません。連れて行くのは親の義務です。無理にでも、たとえ嫌がってでも連れて行きます。
ところが、もっと大事な魂の問題になると、『信仰は自由です』『本人の自覚に任せます』と放任してはいないでしょうか?今日の場面でも子どもたちが祝福を受けられたのは、親や家族の願いと祈りがそこにあったのです。そしてイエス様が招いて下さったからです。子どもも大人も、救い主イエス様が絶対に必要なのです。イエス様の身代わりの十字架がなければ、子どもたちも私たち大人も滅びるのです。イエス様の御手に子どもたちを触れていただく、いつも礼拝で聖霊様の臨在、聖霊様の祝福の油注ぎを受ける。主の愛に触れさせる。それが私たち、親の務め、大人の務めはここにあります。子どもたちを主の御もとに連れて行きましょう。親の務めを果たしましょう!主の祝福に家族で預かりましょう! 皆さんアーメンですか?
❷子どものように信じる (第1コリント1:18・25)
1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
昔、一人のクリスチャン教師が召される前に『喜びと希望と感謝』という本を書きました。「私は、人生の晩年を迎えた今、最も訴えたいことは何だろうか?それは私のために罪の身代わりに十字架で死を死んで下さったイエス様を心より信じて、キリストの中に本当の自分を見い出すことです。童心(子どもの心)に立ち帰って愛の愚かさに徹する人生を持ちたい。」イエス様を信じて生きることは、神の愛の愚かさの中に生きることだと語るのです。私たちは乳飲み子から、子ども、やがて大人になります。乳飲み子だった時は、親の腕に抱かれて、親に頼り切って生きていました。少しずつ成長して、大人になるにつれて、自立して自分で生きるようになります。自分のことは自分で考え、自分で行動し、自分の責任で何でもするようになります。愚かさから卒業し、知恵がつくようになります。そうなると、もはや親の腕に抱かれない。他人の腕にも抱かれない。もしかすると、主の腕にも抱かれないということになってしまうかもしれない。しかし、愛の愚かさに生きることは、逆方向です。もう一度、親の腕に抱かれるように、主の御腕に抱かれるようになることです。
自分の知恵では生きない。主の御腕の中に飛び込み。主の御腕に抱かれて、神の愛の中に生きる。
これがイエス様が求めておられる、「子どものようになることです」
キリストの腕の中に抱かれた時、あなたが見出すのは、十字架にお架かりになった主の御腕に抱かれている姿です。主の御腕は祝福の御手です。その御腕は、あなたの罪を赦す御腕です。ご自分が傷んでまで、あなたを愛してくださる御腕です。この圧倒的な愛の中で、私たちは乳飲み子になることができます。
もはや、私たちの何の知恵も役に立ちません。自分の知恵の賢さではなく、神の愛の愚かさに生きるのです。すでに大人になっていたとしても、子どものようになる。いいえ、なることができるのです。
このように主を信頼し生きる者こそ、神の前に子どものようになる生き方なのです。今週も、あなたも子どものように素直に主の御言葉を信じ、主を信頼して、従いましょう!皆さんアーメンですか?
お祈りいたします!「天のお父様、子どもの日の合同礼拝を感謝します。子どもを主の御もとにいつも連れて行くことができますように。礼拝や家庭礼拝の子どもたちと主に預かり、主の祝福を受けることが出来ますように。私たちは不信仰で、疑いやすく、自分の力と知恵で歩もうとする私たちの賢さを砕いてください。そして子どものように、神の国を受け入れいる、素直な信仰、神の愛の愚かなさに徹し、十字架の愛の御腕の中にゆだね、主に信頼する子どものような素直な信仰を持って主に従う者とならせてください。
主イエス・キリストの御名よってお祈りいたします。アーメン」
昇天者記念礼拝『 ラザロの復活 ~イエス様はよみがえりです、命です~』
2019年4月28日
聖書:ヨハネの福音書11書1~15・20~25節
片柳教会・主日礼拝
召天者記念礼拝 『ラザロの復活 ~イエス様はよみがえりです、命です~』
2019年4月28日
聖書:ヨハネの福音書11書1~15・20~25
片柳教会・主日礼拝
●11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
●11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
●11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。
●11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
11:21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24マルタはイエスに言った「終わりの日のよみがえりの時に私の兄弟がよみがえることは知っています」
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
●序.先週はイエス様の復活を記念するイースターでした。ヨハネの福音書は、11章からは、イエス様が、人類の救いのために十字架の道を歩み、復活へと向かわれます。その導入にヨハネはべタニアのラザロの死とよみがえりの出来事を取り上げて、「復活のしるし」としてラザロの復活を告げています。
●1. 死の前に、「私たちは無力です」 (ヨハネ11:1~3)
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
ラザロという人は、ベタニヤのマルタとマリアの弟でした。イエス様はエルサレム滞在中、よくこの兄弟たちの家に立ち寄られました。イエス様にナルドの香油を注がれたマリヤの美しいエピソードがある、主を愛し従う家族でした。その弟ラザロは、不治の病にかかり、ついに亡くなりました。
さて、ここに登場するラザロは私たちであり、私たち自身です。なぜなら、ラザロは一言の言葉も、発してはいません。人間は、死の力の前には、どうすることもできない、私たちは無力な存在です。
そのような無力なラザロに、主イエス様は、深い愛を注がれます。そして命へと導かれるのです。
そのように、主イエス様は、死に行く無力な私たち一人ひとりを憐れみ、主の恵みを与えてくださるのです。主の十字架の愛を持って永遠の命を与えてくださるのです。皆さんアーメンですか?
●2. 死に至る 「病は絶望です」 (ヨハネ11:4~7)
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
マルタとマリアは、弟ラザロの重篤という試練を与えられた時、直ぐにイエス様に来て頂きたいと使いを送ります。しかし、イエス様はなぜか、「二日間とどまられました」 なんと、その間に、愛する弟ラザロは亡くなってしまったのです。 マルタとマリアの悲しみ、痛みは、いかばかりでしょうか。
その悲しみ、絶望は、主イエス様でも、弟ラザロの病を癒し、生かすことができなかったのだという、深い絶望感です。姉マルタの嘆きと絶望の言葉が記録されています。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら私の兄弟は死ななかったでしょうに。
●実は、デンマークの実存主義哲学の創設者デンマークのキェルケゴール(1813― 1855年)は、このヨハネの福音書11章4節に影響を受けて『死に至る病』を書きました。「死に至る病とは絶望です。」とキルケゴールは語りました。キルケゴールは、父の犯した罪で、他の兄弟たちは皆34歳前に死にました。きっと自分も、34歳までに死ぬと絶望していました。
私たちは、しばしば人生の病に倒れ、嘆き絶望します。病だけでなく、受験や仕事の失敗や挫折、失恋や離婚を通しても失望落胆します。自分自身にではなく、このような辛い人生の出来事を許された主に怒り、失望落胆し、絶望するのです。あなたは、どんなことで、失望、落胆されますか? 何が絶望させますか? ひとりぼっちの孤独ですか?子どもや家族ですか?しかし、キルケゴールは、「死に至らない病が希望に繋がる」と語ります。「病が死に至らず、絶望に陥らないためには、イエス様を受け入れ、信じることだ」と、語りました。 キルケゴール自身、イエス様を信じ、絶望から希望へと変えられました。
●11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
イエス様は、「さあ、彼のもとに行こう」と、すべてを備えられた時、ラザロのもとに向かいます。しかしそれは、同時に、イエス様を殺そうとしている人々の只中に再び舞い戻ることです。
それでも、イエス様は、十字架にかけられる「夜」はまだ来ない。「昼のうちに」眠っているラザロを「起こしに行く」と言われました。主に愛されている者の死とは滅びでもなく、別れでもなく、眠りの時です。
そして眠りから目覚めさせ、命の朝を迎えさせてくださるお方は主イエス様です。
そのために主は「さあ、彼のもとに行こう」と言ってラザロのもとに行かれます。そしてイエス様は、あなたの所にも来てくださいます。皆さんアーメンですか?
●3. 死は 「神の栄光のために」(ヨハネ11:4)
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
普通、親しい人の危篤の時の知らせを受けると、すぐに駆け付けます。私たちは、生きているうちに会いたいからです。
しかし、主イエス様は、人間の死の現実に左右されることもなく、死を克服して命をお与えになります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」イエス様は、ラザロの病気を通して、ラザロの死を通して神の栄光が現わされる。死を克服して命が勝利することで、「神の子が栄光を受けることになる」と宣言されたのです。
イエス様の栄光、それは十字架です。イエス様が、あなたの罪と救いのために十字架で命を捨てられ、三日目に復活する。ここに主の栄光があります。世界中の私たちラザロに命を与えるためにイエス様は十字架の道を歩まれまた。
皆さんアーメンですか?
●結論: 「イエス様は、よみがえりです。命です」 (ヨハネ11:25)
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
イエス様は、復活の命で、ラザロをよみがえらせました。ラザロは、私たちの先駆けです。イエス様を信じるすべての人に復活の新しい、永遠の命を与えてくださるのです。 皆さんアーメンですか?
先週の火曜日、西部卓兄の愛媛におられる叔父さんの青野勉兄が天に召されました。昨年暮れに、西部兄の個人伝道でみごとに救われました。青野勉兄は、召される最後まで、西部兄が個人伝道で用いられた小冊子ビリーグラハム先生の『永遠の平和へのステップ』をいつもベッドの傍らの手元に置かれ、目を通して、手から離さなかったそうです。そして先週この地上の歩みを全うされてイエス様が待っておられる永遠の平和の天国へと凱旋されました。「私は、よみがえりです。いのちです」と宣言されたイエス様が、あなたに罪の赦しと救い、永遠の命を与えるために、ご自身のお体の肉を裂かれ、尊い血潮を流されたことを心に留めて、復活の主を信じ、主に感謝し主に心から賛美をささげましょう!
お祈りいたしましょう。「復活の主イエス様、御名を心から賛美します。召天者記念礼拝を感謝いたします。私たちはラザロです。死の前には、沈黙し、手も足も出ない無力な存在です。主は、絶望する兄弟マルタとマリアを顧みて、ラザロを憐れみ、復活の命で死の床よりよみがえらせてくださいました。イエス様の十字架の死と復活は、私たちの罪と絶望に対する勝利と希望です。イエス様を信じ、先に天に召された愛する家族、兄弟姉妹との再会の望みのゆえに心から主に感謝します。私たち一人一人を、導き、イエス様を信じ、復活の命の恵みへとお導きください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン」
イースター 子ども卵探し!!
今日の、教会学校は、イースターの卵探しでした。
イースター ポットラック
今日は、昇天者記念礼拝の後、ポットラックを行いました。
ポットラックとは、参加者がそれぞれ食べ物を持ち寄って楽しむパーティです。
来年は、あなたも参加してみてください!!
イースター説教
イースター説教 『 誰を捜しているのですか? ~復活の証人となる~』
2019年4月21日
聖書:ヨハネの福音書20章11~18節
片柳教会・主日礼拝
●20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
●20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
●皆さま、イースターおめでとうございます。私たちの信仰の確信は、イエス・キリスト様の身代わりの十字架と復活を信じる信仰によって救われることです。主イエス様の十字架の死と復活が信仰の土台です。
この復活の信仰に一番最初に立った女性がいます。その女性の名前は、マグダラのマリアです。イースターの出来事の御言葉を受けましょう
●1. マリアは、「泣いていた」 (ヨハネ20:11~13)
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
マグダラというのは、彼女の生まれたガリラヤ湖西岸にある町の名前です。マリアは7つの悪霊につかれて苦しんでいたのですが、主イエス様によっていやされました。
マルコ16:9 「さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。」
「7つの悪霊」とは深刻です。私も何度が悪霊に苦しむ方々の解放のミニストリーをさせていただきました。それでも1つから3つくらいの悪霊に苦しんでいる方々です。マグダラのマリアは、7つの悪霊によって縛られ、支配されていた訳ですから、自由もなければ、喜びもない苦しみだけの悲惨な人生でした。
イエス様は、そのような苦しみと呪いの7つの悪霊を追い出して、解放し、救ってくださいました。
マリアの喜びと感謝は、いかばかりのものであったか、私などには、とても想像もできません。
マリアのその後の人生の歩みにそれが現れています。イエス様に出会い、救われて以来、かたときもイエス様から離れずに、十字架の場面でも、イエス様の母マリアとと共に十字架のもとに佇んでいました。ユダヤの国会議員であったアリマタヤのヨセフが、イエス様のご遺体を自分の新しい墓に葬った時も、その様子を最後まで見て届けていました。ユダヤ教の安息日が明けた日曜日の朝早く、誰よりも早く、イエス様のお墓に駆けつけたのもマグダラのマリアでした。ここにマリアという女性のイエス様の救いに対する感謝と献身の信仰がよく現れています。
マリアの献身は、私たちへチャレンジです。ルカ17:12~19に、10人のツァラアト、重い皮膚病、昔のらい病に冒された人々がイエス様に癒されました。イエス様に感謝するために戻ってきたのは1人でした。9人は全くの恩知らずです。私たちの主への感謝は、この9人のように主への感謝もない恩知らずの人になってはいないでしょうか? 私たちもマグダラのマリアの信仰と献身に習い、いつも主から離れずに、主のそばにいる者となりましょう!皆さんアーメンですか?
●さて、イースターの朝、マグダラのマリアは「墓の外に立って泣いていた」と記されています。男の弟子は墓が空であることを確認すると「家に帰って行きました」。
しかし、彼女にとっては主のお体がないからと言って立ち去ることはできませんでした。どう考えていいのか分からない、誰かが奪っていったのかしら? マリアは、泣きながら墓の前で立ち続けていたのです。
私たちの人生でも途方に暮れて立ちつくす、どう考え、どう処していいのか分からない時があります。
愛する人が召された別離の悲しみで毎日涙する。別離ばかりではありません。失恋や離婚、失業や倒産、受験の失敗や仕事の挫折を体験して、心が空しくなり、何も考えられない、何も手につかない、マリアのようにただただ佇み、悲嘆にくれて、泣いて過ごすような経験をされた方々もおられるようでしょう。
私たちもマグダラのマリアのように、墓の中を覗き込んで、死んだ過去の思い出でに慕って、泣いて過ごすことがあるかもしれません。墓の中の天使が「なぜ、泣いているのですか?」とマリアに尋ねました。マリアは「だれかが私の主を取って行きました。」と、マリアは、どこまでも、過去の死んだ主イエス様を求めていました。イエス様を見失うと私たちも、マリアのように「空しいカラの墓の中をのぞいて、」嘆くことになります。しかし、イエス様は、そのような者を見捨てられたままにはありませんことはありません。
●2. マリアは、「復活の主に出会った」(ヨハネ20:14~16)
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
イエス様は、マリアの後ろに立っていてくださいました。でも、失望落胆しているマリアには、それがイエス様だとはわからなかったのです。
その時に、イエス様はお言葉をかけてくださいました。本当の解決はここにあります。
イエス様は、「なぜ、泣いているのですか。誰を探しているのですか」と尋ねられました。ところがマリアは、てっきりその声は、墓の管理人だと勘違して、「あなたがイエス様のご遺体を隠したんですか? 私に返してください!」と頓珍漢(とんちんかん)な問答になってしまっています。どうしてでしょうか?マリアの関心は「イエス様の体が見当らない」イエス様の遺体はどこにあるのかです。マリアは確かに一生懸命です。人は、一生懸命な時、勝手に思い込み、勘違いしてしまうのです。そして主イエス様が、すぐ後ろに立っていても気づかないのです。マリアの固執、こだわり、思い込みが生きておられる主イエス様を見ることをできなくさせているのです。
あなたはいかがでしょうか? 時々、マリアのようになっていませんか?
●イエス様は泣いて立ちつくすマリアを放っておかれません。イエス様は、今度は名前を呼ばれます。
「マリア」と。いつも呼びかけられていた懐かしい優しい声です。マリアは、イエス様だとわかったのです。はっと振り返ります。真正面から「ラボニ(私の先生)」 生けるイエス様を見出したのです。
これは、私たちと主との関係、信仰生活の上でとても大切なことです。
「神と出会うのは、いつも個人的なことです。」 神と私、「アダムよ」「ノアよ」「アブラハムよ」「モーセよ」「ペテロよ」「パウロよ」聖書の人物たちは、みなそうでした。一人の人間として神の御前に立つのです。
大勢の人々がいる所では、神との交わりは難しいのです。
マリアは、いつも「マリア」「ラボニ(私の先生)」と1対1の関係と交わりをしていかたからこそ、「マリア」
と呼びかけられた時に、すぐに「ラボニ(私の先生)」と素直に、喜びの表現で応答することが出来ました。
私たちも同じです。普段からデボーションで神の御言葉を聴き、交わりを持っていると、困難や試練の時に、失望落胆しても、イエス様からの語りかけを聴くことが出来るのです。
●イエス様は私たちの羊飼いです。羊飼いは羊の名を知って羊を導かれます。
(ヨハネ10:3)「 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」
羊飼いである主イエス様は、あなたの名前を呼んでくださるお方です。あなたはよみがえられた主イエス様をマリアのように見上げることが出来ます。復活の主を信じることが出来るのです。私たちが聖書を読み、説教を聞くことは、この私に対する主イエス様の呼びかけの声を聞くためです。
聖書の御言葉を通して、礼拝において、「私に」語りかける主イエス様の御言葉を聞く時、あなたは復活の主イエス様に出会うのです。皆さんアーメンですか?
●3. マリアは 「復活の証人となる」 (ヨハネ20:17~18)
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
このイエスのお言葉はどういうことでしょうか?イエス様の体に触れられては困ることでもあるのでしょうか? マリアはイエス様が復活して、生きておられることを知ったら、今、マリアがなすべきことは、主にすがりついて時を過ごすのではないのです。自分の感情を満足させているべき時ではないと言われたのです。
主イエス様は「わたしの兄弟たちのところに行って、伝えなさい。」 とお命じになられました。
あなたには特別な使命があるのだ。あなたにはなすべきことがある、と言われたのです。
復活の主・生きておられるイエス様の呼びかけ、御言葉を聞い時から、マリアは墓の前で泣く弱々しい一人の女から、復活の主の証人へと大きく飛躍したのです。
マリアは、私たちの人生を変える主イエス様の復活を証しする復活の証人となったのです。
新しい人生に変わったのです。この後マグダラのマリアは弟子たちの所へ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えました。
それまでのマリアは墓の前で泣き、立ちつくす以外なかった女性です。しかし、今、マリアは、喜びの主の復活の福音を伝える最初の使者、最初の伝道者とされたのです。最初の復活の目撃者として、復活の証人に変えられました。2千年前の社会では、女性は裁判の法廷という公の場で証言することすら認められていませんでした。女性は差別されていました。そのような時代に、主はか弱い、女性のマリア、しかも墓の前で泣きじゃくり立ちつくして以外なかった女性を選ばれて、聖書の最大のメッセージ、イエス・キリストの復活のメッセージを語るという最も大切な使命を委ねてくださったのです。私たちも、復活の証人となるのです。
皆さんアーメンですか?
●結論:「あなたも復活の証人となる」 (使徒の働き1:8)
❶ あなたは、主の復活の証人となる
(使徒の働き1:8)「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
イースターの喜びは、イエス様を信じる信仰によって、今あなたのものとなります。今、特に試練の中におられる方々も、復活の希望によって、試練に打ち勝つ力が与えられます。復活の主と出会った人は、家族や友だちの所に行って、復活の証人となるのです。聖霊様があなたの内に働いて、御言葉を与え、宣教のために用いられます。聖霊様の力を受けて、あなたも主の証人となるのです。皆さんアーメンですか?
❷ あなたは、あなた自身の復活の証人となる
復活のイースターは、あなたの人生に希望を与えます。あなたの人生も希望によって文字通り、復活します。復活の命が、あなたの人生を作り変えてくださる。 あなたの存在が、復活の証人となるのです。
●証し「生まれつきの筋ジストロフィーという難病の青年・保田広輝さん(28歳)がいます。
この病気は遺伝子の異常により全身の筋肉が動かなくなり、やがて死に至る難病です。彼は電動車椅子に乗っていて24時間人工呼吸器を使わなければ生きられません。動かせるのは手の指だけです。
4歳の時、20歳までの命と言われ、親は難病を息子に告げることはどうして出来なかったそうです。
学校ではよく転倒して、足が悪いことでイジメられました。9歳から車椅子生活となりました。
クリスチャンホームに生まれた彼は、「この足にした神様が悪いんだ!」と泣き叫び、葛藤する日々を過ごしたそうです。病気が悪化する中、懸命に受験勉強に励み、大学に合格します。しかし、体調不良により半年で中退となりました。人工呼吸器を使い寝たきりの身体になり、主治医からは、35歳までの命と余命宣告を受けます。難病による体の激しい痛みの中で、ベッドで過ごす生活は、毎日が葛藤の日々です。
祈りの中で、これほどの苦しみの中に置いた神様にいらだちをぶつけ続けます。
「なぜ35歳で死ぬ難病を与えたのですか?、若くして死にたくない!どうか癒やしてください、こんな苦しい状態で生きていても意味がない、このまま死を待つだけの人生なんでしょうか?」と祈り続けました。
この世の人間の生きる価値は、健康に生きて、仕事をして社会で役立つことで決まるけど、難病の私には無理だ。神様に祈り続けていても、わからない。それでも、彼はいつも聖書を読んで祈ること、日曜日は教会へ行くことはやめなかった。ある日、聖書の御言葉が心に響いてきた。
● (エゼキエル書2:8節)「 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
主は私の心に語りかけてくださるんだ、私の心を変えてくださるんだ、と信じられるようになりました。
それからは、ただ聖書を読んで祈るだけではなくて、読んだ御言葉を何度も朗読していきました。
主の語りかけを待ち続けた、余命宣告から1年半が経った頃、御言葉でガラリと心が変えられたのです。
●(ヨハネの福音書15:16)「 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
(1テモテへの手紙4章)
4:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。
4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。
私は自分の意志で生まれ、望んで難病になって生まれて来た訳ではありません。ということは、私は神様からの任命を受けて、生まれつきの難病の体に選ばれた。主がいつも共にいてくださって、難病の人生を生きていきなさい、と主が任命して下さったからこそ、難病の人生にチャレンジしているんです。
だから、難病の私も神から愛されているんだ、難病の私も神の作品なんだ、難病の私は神の失敗作ではないんだ、と思えるようになりました。
それからは、いつも神から愛されている喜びを感じられるようになりました。難病は神から与えられた良いものです。私も神の愛によって生まれて、大切な命が与えられている。そして、命だけじゃない。
私たちに与えられているイエス様は最高のプレゼントです。十字架で私の罪と死から救ってくださったイエス様の愛が最高のプレゼントです。イエス様が、私の罪のために十字架にかけられて死んでくださり、
墓に葬られて、3日目に死人の中から復活なさった。これを信じる人は、罪と死から救われて、死んだ後に滅びない体に復活して永遠の命が与えられます。聖霊様が心に住んでくださり、神の子とされます。
私は祈りました。「私には何もありません。主におささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」
主に人生を献げる決心をしてから、「難病を通して神を伝えていきなさい、難病の人生の信仰と希望を伝えなさい」という使命とビジョンが与えられました。こうして、難病を受け入れることができました。
自分では不思議なくらい、前向きに生きていけるように変えられました。
教会や講演会で主を証しする機会も与えられました。人間が生きる価値は、自分や他人が決めるのではなく、主が決めてくださいます。難病の私でも、主から生きる使命を与えられている。私は生きる価値と喜びがある。 イエス様の十字架と比べたら、私の難病の苦しみはとても小さなものだけど、
イエス様が味わった苦しみを少しでも共有することで、主の弟子になる。難病の十字架を背負うことで、イエス様に似た者へと変えられる。イエス様は十字架の苦しみの人生を歩むことで、神の愛をあらわされた。私も「福音」を伝えるために、難病の身体で苦しんでいる。こうして、私の命に神の愛が染み込んでいく。
●私は、クリスチャン作家のジョージ・マクドナルドの言葉が好きです。
「神の子キリストが苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、
人間の苦しみもまた、キリストの苦しみに似るためであった。」
難病の私は、イエス様のような生き方、イエス様に少しでも倣えたらと思います。ここに難病の私の生きる希望があります。私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていた。でも、聖書を読んで祈ることで、主は私を復活させてくださいました。イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、
どんなに人生に絶望しても、大丈夫!主が必ず復活させてくださるから。皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう。「復活の主イエス・キリストの父なる神様、死を打ち破り勝利されたイエス様の御名を心から賛美します。私たちは、しばしば空の墓の前で、嘆き悲しみます。しかし、復活の主はマリヤの傍らで、呼びかけられたように、私たちに呼びかけておられます。いついかなる時に共におられる主と向き合い、御言葉に聴き従う時、私は喜びに変えられ、この人生は死で終わらない、人生には希望があることを知らされ感謝いたします。春の新学期、今週も復活の主と共に主の証人として歩むことが出来ましょうにお導き下さい、主イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン。」
教会学校教師入職式が行われました。
主がお入り用なのです 〜子ロバに乗られた主イエス様〜 2019年4月13日
聖書:ルカの福音書19章29‐38節 片柳教会・主日礼拝
序. 今日は『棕櫚の主日』である。イエス様が私たちの救いのために十字架を目指して、都エルサレムに入場された。
1. 主は、「子ろばに乗って 」 入場した (ルカ19:29~35)
世界の王の王、主の主、イエス様は力強い軍馬にではなく、子ロバに乗りエルサレムに入場した。これは旧約ゼカリヤ書9章9節の預言の成就。「柔和」という言葉には、「貧しい」と言う意味がある。、神の御子は、実に貧しき姿で入場された。このお姿こそ、十字架における最も惨めな死へと向かう苦難のしもべのお姿であった。(イザヤ53章)
2. 主は、「賛美の中をエルサレムに」入場した (ルカ19:36~38)
イエス様が凱旋入城された時、人々の心は、商売やお金のことでいっぱいであった。神殿では、両替人がいて、礼拝でささげる犠牲の鳩や羊の売り買いで賑わっていた。本来、祈りがささげられる神殿が、市場のようになっていた。人々の心は、救い主をお迎えするよりも、経済に熱中していた。祈りよりも、お金であった。
一部の人々が、棕櫚(シュロ)の枝を道に敷き、「ホサナ」(救ってください)と賛美して主をお迎えした。
主は、群衆の歓喜が、まもなく「十字架につけろ!」の呪いの叫びに変わることを知っておられた。なぜなら人間の罪は、闇を愛して光を憎む。自分の欲望を求め、神の御心に逆らう。人間の内に潜む恐るべきエゴ(罪)は、神の御子さえも十字架にかけて殺してしまう。この弱さと罪の苦しみからあなたを救うために、十字架の道を歩まれた。主イエス様は、政治的な地上の権力者・王ではなく、目に見えない霊的な神の国の王である。つまり、主が子ロバに乗り、門を通ってエルサレムに入り王に即位された。主イエス様をあなたの心の中に王、主人としてお迎えしよう。聖霊様が心に宿る神殿として主の御心を行い、主の栄光をこの世界で表すために、あなたは生かされている。
●結論: 『 あなたも、主が、お入り用なのです 』
❶ 主は、未経験な人を用いてくださる (19:30)
イエス様は、あえて、「まだだれも乗ったことのない子ろばを連れて来なさい」と命じられた。
主は、まだ経験のない人を用いてくださる。イエス様の御用のために経験があるかないかは問題ではない。
❷ 主は、小さな人を用いてくださる
主はロバの子を用いたように、小さな者をも用いてくださる。親ロバもいた(マタイ21:7)。でも主は、子ロバをあえて用いられた。主は、神の国のために、立派な人や偉い人ではなく、私たちのような小さき者、無力な者、へりくだり、心の砕かれた者を用いてくださる。(Ⅰコリント1:21)「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」とパウロは語っている。 ●例話:「ちいろば先生こと、榎本保郎牧師」の言葉。
❸ 主は、従順な人を用いてくださる
ロバは決して愚かな動物ではなく、従順で忠実な家畜である。馬は、調教しなければ人を乗せることはできない。
でも、ロバは馬よりも従順で、乗り手の手綱の通りに道を行く。主が行きなさいという道を、愚かなほど従順に、ただ黙って黙々と前を向いて歩き続ける。このロバのように、主にどこまでも従う従順な信仰の人を主は用いてくださる。
●例話:「19世紀の大伝道者ドワイト・ムーディーの証し」
●今日から曜日ごとに神の御言葉を読み、静かに主の御苦しみを黙想し、祈りつつイースターを迎えよう。
▼14日(日)主のエルサレム入城・ベタニヤ泊。(ヨハネ12:12〜19、マタイ21:1〜17)
▼15日(月)ベタニヤ発・いちじくの木を呪う、神殿宮きよめ。(マタイ21:18〜22、マルコ11:12〜19)
▼16日(火)いちじくの木枯れる、宮で最後の説教(権威論争・悪い農夫の譬え話・王子の結婚披露宴の譬え話
・カエサルへの納税論争・復活論争・一番大切な戒め・ダビデの子論争)やもめの献金、終末の教え。
(マルコ11:20〜13:37、マタイ21:23〜25:46、ルカ20:1〜21:38)
▼17日(水)イエスの殺害の陰謀とユダの裏切り(マタイ26:14〜16、マルコ14:1〜11)
▼18日(木)過越しの準備を命じる。最後の晩餐ゲッセマネの祈り。イエスの逮捕。カヤパの官邸。
(マタイ26:17〜75、マルコ14:12〜72、ルカ22:7〜65、ヨハネ13章〜18章)
▼19日(金)ピラトがイエスを十字架につけ葬られる。(マタイ27章、マルコ15章、ルカ22:66〜23:55、ヨハネ19章)
▼20日(土)安息日(ルカ23:56)
▼21日(日)ハレルヤ! 主は復活された。(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章) 主よ、感謝します。