母の日の礼拝 『母マリアの信仰 ~レット・イット・ビー~ 』 

2019年5月12日
新約聖書:ルカの福音書1章26~38節
片柳教会・主日礼拝
今日は『母の日の礼拝』です。お母様方の日頃の労に心から感謝を表したいと思います。
 49年前の1970年5月8日、母の日にビートルズの13枚目のアルバム『レット・イット・ビー』がイギリスでリリースされました。それがボートルズ最後のアルバムとなりました。アルバムのタイトルにもなったこの曲は、ポール・マッカートニーがビートルズの分裂騒動の危機を悲しんでいた時に、聖母マリア様が現れて「あるがままを、あるがままに(すべてを)受け容れるのです(レット・イット・ビー)」とささやきタイトルにつけられました。実は、これは今日の受胎告知の場面でマリアが言ったルカ1章38節「お言葉どおりこの身に成りますように」という御言葉です。今日の母の日の礼拝は、母マリアの信仰から主のみ言葉を受けましょう。

1.マリアへの 「祝福」 (ルカ1:26~31)

1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30すると御使いは彼女に言った「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
 イエス様の母となるマリアのところに天使ガブリエルが遣わされ、マリアが救い主の母となると告げられます。この物語は「受胎告知」と呼ばれ、絵画のモチーフに選ばれてきました。また音楽の世界にも大きな影響を与えました。天使ガブリエルの言葉「おめでとう、マリア」はラテン語の「アベ・マリア」と題された名曲を聴いたことがあると思います。 「アベ・マリア」は聖書の信仰が与える祝福がどんなに素晴らしいものであるかを良く教えてくれます
  「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」御使いカブリエルの受胎告知の挨拶に注目しましょう。「アヴェ・マリヤ」という言葉の起源はここにあります。28節の「おめでとう」は新約聖書の原典ギリシャ語のカイロー(χαίρω)で、本来は「喜ぶ」という意味です。
このカイロー(χαίρω)は、別の所で使われています。12弟子たちが、伝道旅行の報告ました。
「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従する」と言って喜んで報告しました。しかしイエス様は弟子たちに対して、ルカ10:20 「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と言いました。
学生ならテストの成績や社会人は仕事の業績などの行いのよる喜びではなく、天に名が書き記されているという「存在の喜び」を教えられました。Doingの喜びではなく、Being存在の喜びです。
使徒パウロはピリピ書の中で、苦難の中でも、試練の中でも「喜びなさい」と命じています(1:18/2:17-18)
この喜びの根拠は、主の一方的な恵みです。新しい恵みの時代が到来し、すべてのものが天に名が記される恵みが到来したのです。この天使の「おめでとう」は単なる挨拶ではなく、全く新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶なのです。マリアだけが「恵まれた」特別なのではありません。
私たち一人ひとりも主にあって祝福される新しい時代が到来したのです。恵みの時代が来たのです。私たちも、互いに喜びをもって「あなたにも、主の祝福があります」と隣の人に挨拶しましょう!
  それではマリアの心を躍らせる「祝福の内容」は何でしょうか?
それは第一に「主があなたとともにおられます。」です。
そして第二は「あなたはみごもって、男の子を産みます。」です。
 さて、マリアが受けた祝福は私たちが普段「祝福」と言う言葉で呼んでいるものとは違った色彩を持っています。私たちは普段、「祝福」と言う言葉を使うときにどんなことを考えるでしょうか?
「主が共におられる」と言うことを通して私たちは自分の人生にどのような祝福を期待するでしょうか?
無病息災。家内安全。商売繁盛。私たちの求める「祝福」は案外、そのようなご利益に近いものがあるのではないでしょうか?
 ところが、マリアの受けた祝福はそのようなご利益とは全く異質のものでした。母マリアの生涯、それは特に息子イエス様との関係を辿る時、明らかになります。この受胎告知の後でマリアはすぐに婚約者であるヨセフから密かに離縁されそうになります。もし未婚の娘が誰かの子を宿したと言うことが明らかになれば、マリアは石打の刑で死罪を免れ得ない立場になっていたはずです。さらにマリアの出産は安全な病院とはほど遠い、旅先のベツレヘムの家畜小屋で行われました。それはとても危険な出産でした。
 さらにイエス様が成人したとき、マリアの夫ヨセフは早く亡くなり、イエス様は長男として残された一家の家長の役目を果たすべき存在でした。ところが、イエス様は福音宣教のために家を出て行ってしまいました。マリアがおそらく最も心を痛めた出来事は、イエス様が十字架にかけられて死ぬ場面を見なければならなかったことです。母よりも先に息子が死ぬこと、しかも犯罪人として処刑されたのです。
 マリアが天使から「おめでとう」と御言葉をかけられた時に、これから過酷な生涯が待っている事など知らなかったはずです。しかし、天使はそのマリアの人生を神が共におられる、人類の救いのために神のご計画に用いられる、祝福された人生だとここでハッキリと宣言しました。ただ単に、無病息災、家内安全、商売繁盛を祝福と考える者には受け入れがたい人生です。
お母様である姉妹の皆さん、あなたの子どもたちが、主の栄光を現わす人生を歩んでほしいと願われませんか?そして愛する兄弟姉妹、私たちも、主がいつもあなたと共におられ、あなたも神のご計画に用いられる人生になりたいと願いませんか? 皆さんアーメンですか?

2.マリアの「レット・イット・ビー」 (ルカ1:34~38)

1:34 マリアは御使いに言った「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
●【NKJV】 1:38 Then Mary said, “Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word.”
 この御言葉から私たちのよく知っている歌が生まれました。それはイギリスのロックグループであるビートルズが歌った「レット・イット・ビー」と言う名曲です。38節でマリアが天使に答えました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と。実は名曲レッド・イット・ビーはこのマリアの言葉「レット・イット・ビー」がタイトルになりました。
このような詩です。「私が悩んでいると/マリア様が現れて/賢い言葉をおっしゃる /「あるがままに(Let it be)」。この曲を作ったのはビートルズのポール・マッカートニーで、当時、ビートルズのメンバーは意見の対立から解散寸前に追い込まれていました。そのことに心を痛めたポールが悩みに悩んだ末、得た結論は「あるがままに」と言うメッセージであったと言うのです。自分があれやこれや考えて、悩んで見てもどうにもならない、成るようにしかならない。「Let it be(あるがままに)」と、この曲が誕生したのです。しかし、このビートルズの曲の言葉はマリアの言葉の半分しか引用されていません。
後半の「あなたのお言葉どおりに」と言う部分が抜けているのです。この言葉を取ってしまった「なるようにしかならない」と言う言葉はある意味で人間のあきらめにも似た運命論です。
しかし、マリアの言葉は決して、人間は自分には計りがたい運命に身を委ねるしかない、ロボットになると言っているのではないのです。マリアは明らかに自分に示された神のご計画が、御言葉通りに「なりますように」と積極的に応答しています。その意味でこのマリアの言葉はあきらめとは正反対に、主の御言葉に積極的に応答し、同意する姿勢です。マリアは、自分の意志で神の御言葉が自分の人生に実現しますようにと願ったのです。私たちも願いましょう! 皆さんアーメンですか?

結論: 『レット・イット・ビー(おことばどおり、この身になりますように)』

❶主の前に謙遜になる
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。」
Ⅰペテロ 5:5 みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。  母マリア様の素晴らしい信仰は「謙遜な信仰」です。私たちも、主も御前にへりくだり、マリアのように私は主のしもべですとお告白しましょう 「私は主のはしためです」言ってみましょう!
❷主の御言葉を信頼する
1:38 マリアは言った。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
母マリアの素晴らしい信仰の第2は、「御言葉への信頼」です。
イザ 2:22 「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
人に信頼するのではなく、主に頼りましょう。聖書に従うクリスチャンは成長します。
●12課の学びをされた方は覚えておられると思います。第12課の最後の「成長」についての学びで
「Say Yes to The LORD! (主に「ハイ」と言いなさい) といつも告白しましょう。ご一緒に言ってみましょう!
❸主の計画の実現を求める
1:38 マリアは言った。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
母マリアの素晴らしい信仰は「主のご計画の実現を求める信仰」です。自分の願望ではなく、私たちの思いを超えた、主の素晴らしいご計画に私たちが用いられて、実現しますようにという信仰です。
●旧約聖書の第1歴代誌17章に、イスラエルのダビデ王が、自分は立派な王宮に暮らしているのに、神を礼拝する場所は粗末なテントのままであることを悩んでいました。そして、自分が主のために立派な神殿を作ろうと決心しその計画を提案するのです。しかし、主は、それはまったく事実に反すると言っているのです。計画を立てるのは主であって、あなたではないと語られました。それは素晴らしい祝福の計画だとおっしゃいました。
 私たちも案外、自分の計画がその通り実行されることを神の祝福と考えてはいないでしょうか?
しかし、主は私たちの計画よりももっと確かで、もっと豊かなご計画を私たち一人一人の人生に持っておられるのです。マリアは神の計画を示されたのです。そしてその主の計画こそが自分にとっての最善の祝福であることに信じて、同意したのです。
 愛する皆さんの中には自分の持っていた計画とは、予期しなかったことが起こった人もいるでしょう。
祝福と言う言葉とは結びつかないようなことを体験された方もあるかもしれません。しかし、だからと言って、あなたが「祝福から外されてしまった」と考えるのは浅はかな考えです。なぜなら、マリアに語られたメッセージと同じように主はあなたの人生に対するご計画を持ち、それを実行してくださっているからです。
だから、あなたも「Let it be お言葉どおり、この身に成りますように」とこの神の計画に同意することが求められているのです。決して主はあなたを不幸せにする計画を実行することはありません。主はあなたの人生とご家族に対して最善の計画を立て、それを実行してくださるお方です。
●その計画を疑うことがない理由は、父なる神様があなたのために御子イエス様を送ってくださいました。
ローマ8:32 「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」
主はご自身の御子イエス様を十字架に送ってくださるほどにあなたとあなたとのご家族を愛してくださっているのです。主があなたのために立てられたご計画です。あなたもその計画が最善であることを確信できるのです。皆さんアーメンですか? お祈りいたしましょう!
「愛する主よ。 母の日の礼拝を感謝いたします。私たちに地上の母を与えてくださり感謝いたします。
母マリアに主はみ言葉を与え、祝福されました。主は私たちのためにも、それぞれの人生にあなたはすばらしい計画を立て、それを実行してくださることを感謝します。主の前にへりくだり、み言葉を信じ、主に信頼して、マリアと同じように信仰的な決断を持ってあなたに従うことができるようにしてください。そして、主の素晴らしいご計画がお一人お一人に実現しますように。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」

子どもの日『子どものように神の国を受け入れる』

2019年5月5日

新約聖書:マルコの福音書10章13~16節     

片柳教会・主日礼拝

10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

序。今日は「子どもの日」です。日本の子どもは? 総務省の統計によりますと先月15歳未満の子ども人口は1533万人で前の年より20万人減り38年連続の減少しています。全体の人口の中で12.3%です。先進国の中では、一番子供がいない国です。まさに少子化です。今日は、このどもの日に合わせて。イエス様と子どもから御言葉を受けましょう!

1. 子どもの「祝福を求めてきた人々(マルコ10:13)

10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

この記事は、マルコだけではなく、マタイ18章、ルカ18章にも記録されています、ですからとても大切な御言葉です。マルコは子どもと書いていますが。ルカでは、幼子(乳飲み子)と書かれています。赤ちゃんから小学生までの子どもたちであったことが分かります。沢山のお父さんやお母さんがイエスにさわっていただこうとして、子どもたちを連れてきました触ってもらうというのは「手を置いて祝福していただくことです。生まれた子どもが健康で元気に育ち、幸福になるようにとはいつの時代にも親の共通願いです。病人を癒したり悪霊を追い出す力を持っているイエスに祝福してもらって、子どもの健やかな成長するようにと、赤ちゃんも子どもたちも連れて来たのです。

しかし弟子たちは子どもと連れてきた大人たちを叱りました。 イエス様は、大人の相手をするだけでも忙しくて大変なので、これ以上煩わせてはならない、と思ったのかも知れません。あるいは、どもたちが騒いだり、赤ちゃんが泣き叫んでイエス様のお話の様の邪魔になると思ったのかも知れません。

いずれにせよ弟子たちはこの親たちを叱ったのです。ところがイエスの思いは弟子たちとは反対でした。

.子どもを「イエス様のところに来させなさい」 (マルコ10:14)

10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

イエス様は、って、お怒りになったのです。イエスは、「子どもたちをに来させなさい。めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」とおっしゃいました。「来させなさい」は、直訳すると「来ることを許しなさい」です。「妨げてはならない」とおっしゃったのです。イエス赤ちゃんもどもをご自分の所に招いておられます。それを妨げ、子どもたちが来るのを邪魔することは、イエスに敵対することになるのです。皆さん、私たちも子どもたちを主のもとに連れて行きましょう!アーメンですか?

3.子どものように「神の国を受け入れる」(マルコ10:15)

10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

私たちが御言葉から学ぶべきことは何でしょうか?イエスは子どもが好きだった。もちろん大好きでした。どもに優しかったからという単純な理由ではありません。イエスは、神の国に入ることができる人は誰かを語っておられるのです。神の国とは、神の支配という意味ですの支配する「神の国」とです。主を信じ従う神の民の救いが完成するです。「このような人でなければ神の国に入ることはできない」と言うことです。神の救いにあずかることができるのはどのような人でしょうか?

それは、どものように神の国を受け入れる人」です。

これはもちろん、救いは、神の国は、子どもしか入れない、「はい、あなた大人はダメダメ」と入り口で追い返される、そういうことではありません。 では、「子どものよう」とはどういうことでしょうか

「子どものように純真な汚れを知らない人」ということでしょうか? そうではありません。

そもそも、子どもが純真で汚れを知らない、なんてことを聖書は語っていません。アダムの堕落以来、人間は子どもの時からに背き逆らい、我がままな自己中心す。ですからイエスがここで「子どものような」と言っておられるのは、「子どものように罪のない純真な者」ということではありません。

節の「子どものように神の国を受け入れる人」です。神の国を受け入れる、それはつまり主イエスによって既に実現している神の恵みのご支配、救いのみ業を信じて受け入れることです。

子どもは、親や教会学校の教師の言葉を素直に信頼して受け入れます。親が言うんだから、先生が言うんだから間違いはない、という素直な信頼です。そのような信頼をもって、イエスによって神の国が実現しているという福音の言葉を信じて受け入れる者こそが、神の国の恵みにあずかる人です。

例話 

脳腫瘍のために、僅か11歳で天に召された雄基君という子の話です。牧師家庭に生まれた雄基君は、小さい頃からいつも、ご両親からイエス様のことを聞いていました。

 3歳の時、お母さんが「イエス様はね、雄ちゃんの罪のために死んで下さったんだよ」と話したら、とっても感動して「イエス様ありがとう!」と言うようになったそうです。4歳の頃には、「僕は、神様のことを伝えるために生きている」と言い出して、2歳の弟に、「僕たち、何のために生きているか知ってる?・・・生きているのは意味があるんだよ。僕たちはイエス様をみんなに伝えるために生きてるんだ。」   

さらに、「僕は、(大人になったら)トラクトを作って世界中に配る人になる。いろいろな国を旅して世界中の人に配るんだ。僕は、世界中の人がイエス様を信じて天国へ行って欲しいんだ。」と言うようになりました。そんな雄基君は、小学生になったら洗礼を受けたいと言い始めたそうです。でも、まだ早いと思ったお父さんは、「水に潜れるようになったらね」と受け流したそうですが、なんとお風呂場で一生懸命に水に潜る練習をし始めたっそうです。そしてついに水に潜れるようになって、洗礼を受けることになったです。

 そんな時、雄基君に脳腫瘍が見つかったんです。そして、手術はしたものの、「あと三年の命です」と言われました。しかも、手術の後に非常に苦しんで、ただただ唸って横になってるばかりだったそうです。

そんな雄基君のために、お父さんがベッドのそばで讃美を歌ってあげると、突然雄基君が口を開いてこう言ったそうです。「イエス様は、僕のために死んで下さったんだよね。だったら僕、がんばる」と…。

 けれども、病気はどんどん進み、やがて、耳が聞こえなくなり、立つことも、歩くことも出来なくなりました。それなのに、雄基君はいつも、神様にこうお祈りしていたそうです。「神様、今日も僕の体を守って下さって、ありがとうございます。」  もし、大人だったら、果たしてこんなふうに言えるでしょうか?こんなふうに、素直にイエス様のことを信じて行けただろうかと思います。まさにこれは、「子どもならではの尊い信仰です。」「子どものように神の国を受け入れる」というのは、こういうことを言うんだなあと思うんです。

結論 「あなたも子どものように信じる者となる

 の務めを果たす

10:14「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。

私たちは赤ん坊が生まれる時、必ず病院の産科に連れて行きます。また熱があり病気の時は、病院に連れて行きますね。赤ちゃんが自分から、「お母さん、病院に行こう」と言い出すことはありません。連れて行くのは親の義務です。無理にでも、たとえ嫌がってでも連れて行きます。

ところが、もっと大事な魂の問題になると、『信仰は自由です』『本人の自覚に任せます』と放任してはいないでしょうか?今日の場面でも子どもたちが祝福を受けられたのは親や家族の願いと祈りがそこにあったのです。そしてイエス様が招いて下さったからです。子どもも大人も、救い主イエス様が絶対に必要なのです。イエス様の身代わりの十字架がなければ、子どもたちも私たち大人も滅びるのです。イエス様の御手に子どもたちを触れていただく、いつも礼拝で聖霊様の臨在、聖霊様の祝福の油注ぎを受ける。主の愛に触れさせる。それが私たち、親の務め、大人の務めはここにあります。子どもたちを主の御もとに連れて行きましょう。親の務めを果たしましょう!主の祝福に家族で預かりましょう! 皆さんアーメンですか?

子どものように信じる (第1コリント1:18・25)

1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

昔、一人のクリスチャン教師が召される前に『喜びと希望と感謝』という本を書きました。「私は、人生の晩年を迎えた今、最も訴えたいことは何だろうか?それは私のために罪の身代わりに十字架で死を死んで下さったイエスを心より信じて、キリストの中に本当の自分を見い出すことで。童心(子どもの心)に立ち帰って愛の愚かさに徹する人生を持ちたいイエス様を信じて生きることは、神の愛の愚かさの中に生きることだと語るのです。私たちは乳飲み子から、子ども、やがて大人になります。乳飲み子だった時、親の腕に抱かれて、親に頼り切って生きていました。少しずつ成長して、大人になるにつれて、自立して自分で生きるようになります。自分のことは自分で考え、自分で行動し、自分の責任ででもするようになります。愚かさから卒業し、知恵がつくようになります。そうなると、もはや親の腕に抱かれない。他人の腕にも抱かれない。もしかすると、の腕にも抱かれないということになってしまうかもしれない。しかし愛の愚かさに生きることは、逆方向です。もう一度、親の腕に抱かれるように、主の御腕に抱かれるようになることです。

自分の知恵では生きない。腕の中に飛び込腕に抱かれて、神の愛の中に生きる。

これがイエスが求めておられる、「子どものようになることです」

キリストの腕の中に抱かれた時、あなたが見出すのは、十字架にお架かりになった主の御に抱かれている姿です。主のは祝福の手です。そのは、あなたの罪を赦す御腕です。自分が傷んでまで、あなたを愛してくださるです。この圧倒的な愛の中で、私たちは乳飲み子になることができます。 

もはや、私たちの何の知恵も役に立ちません。自分の知恵の賢さではなく、神の愛の愚かさに生きるのです。すでに大人になっていたとしても、子どものようになる。いいえ、なることができるのです。

このように主を信頼し生きる者こそ、神の前に子どものようになる生き方なのです。今週も、あなたも子どものように素直に主の御言葉を信じ、主を信頼して、従いましょう!皆さんアーメンですか?

 お祈りいたします!「天のお父様、子どもの日の合同礼拝を感謝します。子どもを主の御もとにいつも連れて行くことができますように。礼拝や家庭礼拝の子どもたちと主に預かり、主の祝福を受けることが出来ますように。私たちは不信仰で、疑いやすく、自分の力と知恵で歩もうとする私たちの賢さを砕いてください。そして子どものように、神の国を受け入れいる、素直な信仰、神の愛の愚かなさに徹し、十字架の愛の御腕の中にゆだね、主に信頼する子どものような素直な信仰を持って主に従う者とならせてください。

主イエス・キリストの御名よってお祈りいたします。アーメン」

昇天者記念礼拝『 ラザロの復活  ~イエス様はよみがえりです、命です~』

2019年4月28日

聖書:ヨハネの福音書11書1~15・20~25           

片柳教会・主日礼拝

召天者記念礼拝 『ラザロの復活  ~イエス様はよみがえりです、命です~』 

2019年4月28日

聖書:ヨハネの福音書11書1~15・20~25       

片柳教会・主日礼拝

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。

11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。

11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」

11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」

11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」

11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。

11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。

11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。

11:21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24マルタはイエスに言った「終わりの日のよみがえりの時に私の兄弟がよみがえることは知っています

11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

●序.先週はイエス様の復活を記念するイースターでした。ヨハネの福音書は、11章からは、イエス様が、人類の救いのために十字架の道を歩み、復活へと向かわれます。その導入にヨハネはべタニアのラザロの死とよみがえりの出来事を取り上げて、「復活のしるし」ラザロの復活を告げてい

●1.  死の前に、「私たちは無力です」 (ヨハネ11:1~3)

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。

11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである

11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

ラザロという人は、ベタニヤのマルタとマリアの弟でした。イエス様はエルサレム滞在中、よくこの兄弟の家に立ち寄られました。イエス様にナルドの香油を注がれたマリヤの美しいエピソードがある、主を愛し従う家族でした。弟ラザロは、不治の病にかかり、ついに亡くなりました。

さて、ここに登場するラザロは私たちであり、私たち自身です。なぜなら、ラザロは一言の言葉も、発してはいません。人間は、死の力の前には、どうすることもできない、私たちは無力な存在です。

そのような無力なラザロに、主イエス様は、深い愛を注がれます。そして命へと導かれるのです。

そのように、主イエス様は、死に行く無力私たち一人ひとりを憐れみ、主の恵みを与えてくださるのです。十字架の愛を持って永遠の命を与えてくださるのです。皆さんアーメンですか?

●2.  死に至る 「病は絶望です」 (ヨハネ11:4~7)

11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。

11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

マルタとマリアは、弟ラザロの重篤という試練を与えられた時、直ぐにイエス様に来てたいと使いを送ります。しかし、イエス様はなぜか、「二日間とどまられました」 なんと、その間に弟ラザロは亡くなってしまったのです。 マルタとマリアの悲しみ、痛みは、しょうか。

絶望主イエス様でも、弟ラザロの病を癒し、生かすことができなかったのだという、深い絶望感です。姉マルタの嘆きと絶望の言葉が記録されています。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。

11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら私の兄弟は死ななかったでしょうに。

実は、デンマークの実存主義哲学の創設者デンマークのキェルケゴール1813― 1855年)は、このヨハネの福音書11章4節に影響を受けて『死に至る病』を書きました。「死に至る病とは絶望です。」とキルケゴールは語りました。キルケゴールは、父の犯した罪で、他の兄弟たちは皆34歳前に死にました。きっと自分も、34歳までに死ぬと絶望していました。 

私たちは、しばしば人生の病に倒れ、嘆き絶望します。病だけでなく、受験や仕事の失敗や挫折、失恋や離婚を通しても失望落胆します。自分自身にではなく、このような辛い人生の出来事を許された主に怒り、失望落胆し、絶望するのです。あなたは、どんなことで、失望、落胆されますか? 何が絶望させますか? りぼっち孤独か?子どもや家族ですか?しかし、キルケゴールは、「死に至らない病が繋がる」と語ります。病が死に至らず、絶望に陥らないためには、イエス様を受け入れ、信じることだ」語りました。 キルケゴール自身、イエス様を信じ、絶望から希望へと変えられました。

11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。

11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

  イエス様は、「さあ、彼のもとに行こう」と、すべてを備えられた時、ラザロのもとに向かいます。しかしそれは、同時に、イエス様を殺そうとしている人々の只中に再び舞い戻ることです。

それでも、イエス様は、十字架にかけられる「夜」はまだ来ない。「昼のうちに」眠っているラザロを「起こしに行く」と。主に愛されている者の死とは滅びでもなく、別れでもなく、眠りの時です。

そして眠りから目覚めさせ、命の朝を迎えさせてくださるお方は主イエス様です。

そのために主は「さあ、彼のもとに行こう」と言ってラザロのもとに行かれます。そしてイエス様は、あなたの所にも来てくださいます。皆さんアーメンですか?

3.  死は 「神の栄光のために」(ヨハネ11:4)

11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」

普通親しい人危篤の時の知らせを受けると、すぐに駆け付けます。私たちは、生きているうちに会いたいからです。

しかし、主イエス様は、人間の死の現実に左右されることもなく、死を克服して命をお与えになります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」イエス様は、ラザロの病気を通して、ラザロの死を通して神の栄光が現わされる。死を克服して命が勝利することで、「神の子が栄光を受けることになる」と宣言

イエス様の栄光、それは十字架イエス様が、あなたの罪と救いのために十字架で命を捨てられ、三日目に復活する。ここに主の栄光があります。世界中の私たちラザロに命を与えるためにイエス様は十字架の道を歩まれまた

皆さんアーメンですか?

●結論: 「イエス様は、よみがえりです。命です」  (ヨハネ11:25)

11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

イエス様は、復活の命で、ラザロをよみがえらせました。ラザロは、私たちの先駆けです。イエス様を信じるすべての人に復活の新しい、永遠の命を与えてくださるのです。 皆さんアーメンですか?

先週の火曜日、西部卓兄の愛媛におられる叔父さんの青野勉兄が天に召されました。昨年暮れに、西部兄の個人伝道でみごとに救われました。青野勉兄は、召される最後まで、西部兄が個人伝道で用いられた小冊子ビリーグラハム先生の『永遠の平和へのステップ』をいつもベッドの傍らの手元に置かれ、目を通して、手から離さなかったそうです。そして先週この地上の歩みを全うされてイエス様が待っておられる永遠の平和の天国へと凱旋されました。「私は、よみがえりです。いのちです」と宣言されたイエス様が、あなたに罪の赦しと救い、永遠の命を与えるために、ご自身のお体の肉を裂かれ、尊い血潮を流されたことを心に留めて、復活の主を信じ、主に感謝し主に心から賛美をささげましょう!

しょう。「復活イエス様、御名賛美す。天者記念礼拝感謝いす。ラザロす。沈黙ない無力存在絶望兄弟マルタマリアて、ラザロ復活がえさいた。イエス十字架復活絶望勝利希望イエス天に家族、兄弟姉妹再会ゆえ感謝す。一人一人を、イエス様復活さい。主イエス・キリスト御名っておりいアーメン」

イースター ポットラック

今日は、昇天者記念礼拝の後、ポットラックを行いました。

ポットラックとは、参加者がそれぞれ食べ物を持ち寄って楽しむパーティです。

来年は、あなたも参加してみてください!!

イースター説教

イースタ説教  ? ~復活証人』    

2019年4月21

聖書:ヨハネの福音書20章11~18節            

片柳教会・主日礼拝

20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

20:13 彼らはマリアに言った女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

20:16 イエ彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「たしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

イースタとうざいす。信仰確信イエス・キリスト身代十字架復活信仰ってす。イエス十字架復活信仰土台

復活信仰一番最初った女性がいす。女性名前マグダラマリアす。イースタ出来事御言葉しょう

1.  マリア、「てい   ヨハネ20:11~13)

20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

マグダラというは、彼女ガリラヤ湖西岸にある町名前です。マリアは7つの悪霊に主イエスによっていやされ

マル16:9 さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。

「7つの悪霊」とは深刻す。何度悪霊方々解放ミニストリていた。ら3らい悪霊でい方々マグダラマリアは、7悪霊って支配てい自由ない悲惨人生た。

よう悪霊追い出解放ってさいた。

マリア感謝は、いであった想像ん。

マリア人生ていイエス出会以来、イエスに、十字架場面も、イエスマリア十字架た。ダヤ国会議員であったアリマタヤヨセフイエス遺体自分しいった様子最後ていユダヤ教安息日日曜日朝早イエス駆けつけたのもマグダラのマリアでした。ここにマリアいう女性イエス感謝献身信仰てい

 マリア献身チャレンジルカ17:12~19に、10ツァラアト皮膚病、らい人々イエスイエス様感謝っては1た。9恩知す。感謝よう感謝ない恩知の人ってはいないしょうか? 私たちもマグダラマリア信仰献身、いに、にいしょう!アーメン

て、イースタ朝、マグダラマリアは「墓の外に立って泣いていた」と記されています。男の弟子は墓が空であることを確認すると「家に帰って行きました」。

しかし、彼女にとっては主のお体がないって立ち去ることた。どう考えていいのか分からない、誰かが奪っていったのら? マリア泣きながら墓の前で立ち続けてい

私たちの人生でも途方に暮れて立ちつくす、どう考え、どう処していいのか分からない時があす。

る人別離の悲しみ毎日別離ばかりではありません。失恋や離婚、失業や倒産、受験の失敗や仕事の挫折を体験して、心が、何も考えられない、何も手につかない、マリアのようにただただ佇み、悲嘆にくれて、泣いて過ごすような経験をされた方々もおられるようでしょう。

 マグダラマリように、覗き込過去思い出ってがあん。墓の中の天使が「なぜ、泣いているのですか?」マリアマリアだれかが私の主を取って行きました。マリアも、過去イエスていイエス様見失マリアようしいカラぞいす。し、イエスよう見捨はあはあ

2.  マリアは、「復活出会ったヨハネ20:14~1

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

20:15 イスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

イエスマリアっていさいも、失望落胆ていマリアは、イエスったす。

その時に、イエス言葉をかけてくださいた。本当の解決はここにあります。

イエス様ぜ、ていていか」マリアは、っき管理人勘違、「イエス遺体? さい頓珍漢(問答ってっていす。どうしょうか?マリア関心イエスないイエス様遺体にあす。マリア一生懸命す。一生懸命時、勝手思い込勘違まうす。イエスってないす。マリア固執、り、思い込ておイエス様ていす。

 あはいしょうか? 時々、マリアようっていか?

イエスは泣いて立ちつくすマリアを放っておかれません。イエスは、今度名前を呼ばれます。

「マリア」と。ていしいしいす。マリアは、イエスったす。っと振り正面ラボニ(先生)」 イエス見出

は、関係信仰生活大切

出会、い個人」 私、アダム」「ノア」「アブラハムモーセ」「ペテロ」「パウロ聖書人物は、そうた。一人人間す。

大勢人々は、しいす。

マリア、いマリア」「ラボ先生)関係ていそ、「マリア」

ラボニ先生)」素直表現応答出来

普段デボーション御言葉っていと、困難試練失望落胆イエス語り聴く出来

イエスは私たちの羊飼いです。羊飼いは羊の名を知って羊を導かれます。

ヨハ10:3)「 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

羊飼いである主イエス名前を呼んでくださるよみがえられた主イエスマリアよう見上げることが出来。復活の主を信じることが出来るのです。私たちが聖書を読み、説教を聞くことは、この私に対する主イエスの呼びかけの声を聞く

聖書御言葉礼拝において、「私に」語りかけ主イエス言葉を聞く時、あ復活イエス出会皆さんアーメンですか?

3.  マリア 復活る」 ヨハネ20:17~18)

20:17 イエスは彼女に言われた。「たしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

 このイエスのお言葉はどういうことしょうか?イエス体に触れられては困ることでもあるのしょう マリアはイエス復活生きて知ったら、今、マリアがなすべきことは、主にすがりついて時を過ごすのではない。自分の感情を満足させているべき時ではないと言われたのです。

主イエスわたしの兄弟たちのところに行って伝えなさい。」 とおた。

あなたには特別な使命があるのだ。あなたにはなすべきことがある、と言われす。

復活ておイエスの呼びかけ御言葉聞いから、マリアは墓の前で泣くしい一人の女から復活の証人へと大きく飛躍したのです。

マリア人生主イエスの復活を証しする復活証人ったす。

新しい人生に変わったのです。この後マグダラのマリアは弟子たちのへ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝え

 マリアは墓の前で泣き、立ちつくす以外なかった女です。しかし、今、マリアは、主の復活の福音を伝える最初の使者、最初の伝道者とされたのです。最初復活目撃者復活証人千年社会は、女性裁判法廷という場で証言すること認められていませんでした。女性差別た。よう時代女性マリアじゃ立ちつく以外なかった女聖書最大メッセージイエスキリスト復活のメッセージを語るという最も大切な使命を委ねったす。復活証人す。

皆さんアーメンですか?

結論:「あなたも復活の証人となる」 使徒1:8)

 あは、復活証人

使徒1:8)しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

ースターの喜びは、イエス様を信じる信仰によって、今あなたのものとなります。今、特に試練の中におられる方々も、復活の希望によって、試練に打ち勝つ力が与えられます。復活の主と出会った人は、家族友だちの所にって復活証人す。聖霊あなたの内に働いて、御言葉を与え霊様の力、あなたも主の証人となるのです。皆さんアーメンか?

 あは、あ自身の復活証人

復活のイースターは、あなたの人生に希望を与えます。あなたの人生も希望によって文字通り、復活します。復活、あ人生る。 復活証人す。

筋ジストロフィーという難病青年・保田広輝ん(28歳)がいす。

病気遺伝子異常全身筋肉難病電動車椅子ってい24時間人工呼吸器使す。

4歳時、20歳までの命と言われ難病息子どう出来ったそう

学校転倒て、イジメた。9歳から車椅子生活となりました。

クリスチャンホーム「この足にした神様が悪いんだ!」と泣き叫、葛藤する日々そう病気悪化中、懸命受験勉強大学合格す。し、体調不良により半年で中退た。人工呼吸器を使身体になり、主治医からは、35歳までの命と余命宣告を受けます。難病による体のしい、ベッドで過ごす生活は、毎日葛藤日々

祈りの中で、これほどの苦しみの中に置いた神様にいらだちをぶつけ続けま

なぜ35歳で死ぬ難病を与えたのですか?、若くして死にたくないどうか癒やしてください、こんな苦しい状態で生きていても意味がない死を待つだけの人生なんでしょうか?と祈り続け

この世の人間の生きる価値は、健康に生きて、仕事をして社会で役立つことで決まるけど、難病の私には無理だ神様に祈り続けていても、ない。それでも、聖書を読んで祈ること、日曜日は教会へ行くことはやめなかった日、聖書御言葉た。

エゼキエル書28節)「 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」

は私の心に語りかけてくださるんだ、私の心を変えてくださるんだ、と信じられるようになりました。

それからは、ただ聖書を読んで祈るだけではなくて、読んだ御言葉を何度も朗読していきました。

の語りかけを待ち続けた、余命宣告から1年半が経った御言葉ガラリと心が変えられす。

ヨハネの福音書1516)「 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

テモテへの手紙4章)

4:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。

4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

私は自分の意志で生まれ、望んで難病になって生まれて来た訳ではありません。ということは、私は神様からの任命を受けて、生まれつきの難病の体に選ばれたいつも共にいてくださって、難病の人生を生きていきなさい、が任命して下さったからこそ、難病の人生にチャレンジしているんです。

から、難病の私も神から愛されているんだ、難病の私も神の作品なんだ、難病の私は神の失敗作ではないんだ、と思えるようになりました。

それからは、いつも神から愛されている喜びを感じられるようにた。難病は神から与えられた良いものです。私も神の愛によって生まれて、大切な命が与えられている。そして、命だけじゃない。

私たちに与えられているイエス最高のプレゼントす。十字架で罪と死から救ってくださったイエス様の愛が最高のプレゼントですイエスが、の罪のために十字架にかけられて死んでくださり、

墓に葬られて、3日目に死人の中から復活なさった信じる人は、罪と死から救われて、死んだ後に滅びない体に復活して永遠の命が与えられます。聖霊様が心に住んでり、の子とされます。

祈りました。「私には何もありませんにおささげできるものが何もありません。この命しかありません。私の人生を神様におささげします」

に人生を決心をしてから、「難病を通して神を伝えていきなさい、難病の人生信仰と希望を伝えさいという使命ビジョンこう、難病を受け入れることができました。

自分では不思議なくらい、前向きに生きていけるように変えられました。

教会や講演会で証しする機会も与えられました。人間が生きる価値は、自分や他人が決めるのではなく、決めてくださいます。難病の私でも、から生きる使命を与えられている私は生きる価値がある イエス様の十字架と比べたら、私の難病の苦しみはとても小さなものだけど、

イエス様が味わった苦しみを少し共有すること弟子難病の十字架を背負うことで、イエス様に似た者へと変えられイエス様十字架の苦しみの人生を歩むことで、の愛をあらわた。私も「福音」を伝えるために、難病の身体で苦しんでいるこう、私の命に神の愛が染み込んでいく

クリスチャン作家のジョージ・マクドナルドの言葉

「神の子キリストが苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、

人間の苦しみもまた、キリストの苦しみに似るためであった

難病の私は、イエス様のような生き方、イエス様難病希望があ私は生きる意味が分からずに、絶望の日々を過ごしていた。でも、聖書を読んで祈ことで、私を復活させてくださいました。イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、

どんなに人生に絶望しても、大丈夫!が必ず復活させてくださるから。皆さんアーメンか?

お祈りいたしましょう。「復活の主イエス・キリストの父なる神様、死を打ち破り勝利されたイエス様の御名を心から賛美します。私たちは、しばしば空の墓、嘆き悲しみます。しかし、復活の主はマリヤの傍らで、呼びかけられたように、私たちに呼びかけておられます。いついかなる時に共におられる主と向き合い、御言葉に聴き従う時、私は喜びに変えられ、この人生は死で終わらない、人生には希望があることを知らされ感謝いたします。春の新学期、今週も復活の主と共に証人歩むことが出来ましょうにさい、主イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン。」

主がお入り用なのです 〜子ロバに乗られた主イエス様〜      2019年4月13日


聖書:ルカの福音書19章29‐38節                    片柳教会・主日礼拝

序. 今日は『棕櫚の主日』である。イエス様が私たちの救いのために十字架を目指して、都エルサレムに入場された。

1.  主は、「子ろばに乗って 」 入場した  (ルカ19:29~35)

世界の王の王、主の主、イエス様は力強い軍馬にではなく、子ロバに乗りエルサレムに入場した。これは旧約ゼカリヤ書9章9節の預言の成就。「柔和」という言葉には、「貧しい」と言う意味がある。、神の御子は、実に貧しき姿で入場された。このお姿こそ、十字架における最も惨めな死へと向かう苦難のしもべのお姿であった。(イザヤ53章)

2.  主は、「賛美の中をエルサレムに」入場した  (ルカ19:36~38)

イエス様が凱旋入城された時、人々の心は、商売やお金のことでいっぱいであった。神殿では、両替人がいて、礼拝でささげる犠牲の鳩や羊の売り買いで賑わっていた。本来、祈りがささげられる神殿が、市場のようになっていた。人々の心は、救い主をお迎えするよりも、経済に熱中していた。祈りよりも、お金であった。

一部の人々が、棕櫚(シュロ)の枝を道に敷き、「ホサナ」(救ってください)と賛美して主をお迎えした。

主は、群衆の歓喜が、まもなく「十字架につけろ!」の呪いの叫びに変わることを知っておられた。なぜなら人間の罪は、闇を愛して光を憎む。自分の欲望を求め、神の御心に逆らう。人間の内に潜む恐るべきエゴ(罪)は、神の御子さえも十字架にかけて殺してしまう。この弱さと罪の苦しみからあなたを救うために、十字架の道を歩まれた。主イエス様は、政治的な地上の権力者・王ではなく、目に見えない霊的な神の国の王である。つまり、主が子ロバに乗り、門を通ってエルサレムに入り王に即位された。主イエス様をあなたの心の中に王、主人としてお迎えしよう。聖霊様が心に宿る神殿として主の御心を行い、主の栄光をこの世界で表すために、あなたは生かされている。

●結論:  『 あなたも、主が、お入り用なのです 』 

❶ 主は、未経験な人を用いてくださる (19:30)

イエス様は、あえて、「まだだれも乗ったことのない子ろばを連れて来なさい」と命じられた。

主は、まだ経験のない人を用いてくださる。イエス様の御用のために経験があるかないかは問題ではない。

❷ 主は、小さな人を用いてくださる

主はロバの子を用いたように、小さな者をも用いてくださる。親ロバもいた(マタイ21:7)。でも主は、子ロバをあえて用いられた。主は、神の国のために、立派な人や偉い人ではなく、私たちのような小さき者、無力な者、へりくだり、心の砕かれた者を用いてくださる。(Ⅰコリント1:21)「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」とパウロは語っている。 ●例話:「ちいろば先生こと、榎本保郎牧師」の言葉。

❸ 主は、従順な人を用いてくださる

ロバは決して愚かな動物ではなく、従順で忠実な家畜である。馬は、調教しなければ人を乗せることはできない。

でも、ロバは馬よりも従順で、乗り手の手綱の通りに道を行く。主が行きなさいという道を、愚かなほど従順に、ただ黙って黙々と前を向いて歩き続ける。このロバのように、主にどこまでも従う従順な信仰の人を主は用いてくださる。

●例話:「19世紀の大伝道者ドワイト・ムーディーの証し」

ムーディー

 ●今日から曜日ごとに神の御言葉を読み、静かに主の御苦しみを黙想し、祈りつつイースターを迎えよう。

▼14日(日)主のエルサレム入城・ベタニヤ泊。(ヨハネ12:12〜19、マタイ21:1〜17)

▼15日(月)ベタニヤ発・いちじくの木を呪う、神殿宮きよめ。(マタイ21:18〜22、マルコ11:12〜19)

▼16日(火)いちじくの木枯れる、宮で最後の説教(権威論争・悪い農夫の譬え話・王子の結婚披露宴の譬え話

・カエサルへの納税論争・復活論争・一番大切な戒め・ダビデの子論争)やもめの献金、終末の教え。

(マルコ11:20〜13:37、マタイ21:23〜25:46、ルカ20:1〜21:38)

▼17日(水)イエスの殺害の陰謀とユダの裏切り(マタイ26:14〜16、マルコ14:1〜11)

▼18日(木)過越しの準備を命じる。最後の晩餐ゲッセマネの祈り。イエスの逮捕。カヤパの官邸。

   (マタイ26:17〜75、マルコ14:12〜72、ルカ22:7〜65、ヨハネ13章〜18章)

▼19日(金)ピラトがイエスを十字架につけ葬られる。(マタイ27章、マルコ15章、ルカ22:66〜23:55、ヨハネ19章)  

▼20日(土)安息日(ルカ23:56)

▼21日(日)ハレルヤ! 主は復活された。(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章) 主よ、感謝します。