信仰に生きる ~ヤコブとヨセフの生涯~ 2021年3月7日 創世記45章25~28節

説教レジメ 『 信仰に生きる ~ヤコブとヨセフの生涯~』       2021年3月7日

聖書:創世記45章25~28節

序.ヨセフの物語のクライマックスを見た。今日は、『ヨセフの物語』のまとめである。

 

1.  主は約束を成就する。

ヤコブの子ヨセフは、17歳で、兄たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られ、監獄にまで入れられた。人々からも忘れられ、希望もなく歳月が過ぎた。「今の苦難は、将来エジプトの総理大臣となるためのシナリオだ。」と、天使のお告げがあれば、励まされた。しかし、もし、お告げがあれば、信仰がなくなる。

主からの夢や信仰のビジョンを持って、一歩ずつ苦難の道を歩むためである。そこに神の奥義を悟る。

変わらない真実な主の愛を体験する。(民数記23:19 )「神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから悔いることがない。神が仰せられたら実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。」 主は天地を無から創造された無限の力を持っている。だから主は、約束を成就される。

 

2. 主を信じて待てば、成就する。(創世記12章)

ヤコブの祖父アブラハムにウルで、主は祝福の約束を語られた。(創世記12:1~2)その時、アブラハムは、75歳で、25年間待ったが、待ち疲れ、疑いが生じ、約束されていない子イシュマエルを得た。

妻のサラは子どもを産む可能性を完全に失った。 しかし、主の意図は、人間的に不可能まで私たちを連れて行かれる。アブラハムは、100歳で約束の子イサクが与えられた。そのイサクはリベカと40歳で結婚し、60歳まで20年間待った。これは「主を信じて待てば、神の約束は成就する。」 ということである。

 

3. 主の約束は続いている。

ヤコブは、兄を騙して、家を追われ、母の実家ハランで、20年間世話になる。厳しい人生を過ごした。

主の約束は、1つも成就しないように思えた。ヤコブは、とても傷ついている。どうしてこんな人が、信仰の先祖になれるのかと思うほどである。しかし、神の約束は続いている。私たちは失敗して、傷ついても、無力であっても、主が選ばれたので、主はあなたを導かれる。すべてが終わったかのように見えても、水面下で、主の働きは続いている。将来のビジョンも、家族の救いも、あなたの目に見えない所で、聖霊様は働かれ、主の働きは前進している。そして、あなたが主イエス様の似姿になるまで、聖霊様の聖化の恵みは続き、天国の救いの完成、栄化まで導かれる。主は諦めない。あなたが困難の中にあっても、救い出される。サタンの口の中に入っても、主はサタンの口を引き裂き、助け出して、約束を成就させる。

 

  • 結論 「あなたも信仰に生きよう!」

 

❶ あきらめない。(創世記45:26~27)

信仰に生きる人とは、あきらめない人である。でも多くの人は、祈っても、教会に通っても、途中であきらめる。聖霊様を制限してはならない。老いたヤコブは、ヨセフを失い、信仰を断念した。しかし、主は取り扱われた。死んだと思っていたヨセフは生きていた。ヨセフは、30歳でエジプトの総理大臣となっていた。これは、神の約束の成就であり、神は真実である。ヤコブに信仰があったからではなく、神が祝福すると約束されたので、ヤコブは祝福の人となった。あなたは「神の子」とされたので、主に祝福されるのである。

❷ ビジョンに生きる。(創世記45:28)

ヤコブに、希望が与えられビジョンが与えられた。死ぬ前にヨセフに会う。聖霊様の感動が溢れ、ビジョンが与えられ、喜びが与えられる。あなたの家族が救われ変えられる。学びや仕事にビジョンが与えられて、祝福される。あなたも諦めないで信じ続け、ビジョンを求め、信仰に生きよう。主よ感謝します。

『溢れる主の祝福 ~ヨセフの和解の恵み~』創世記45章14~28節 2021年2月28日

オンライン礼拝 『 溢れる主の祝福 ~ヨセフの和解の恵み~』            聖書:創世記45章14~28節

  • 序。さあ、いよいよヨセフの物語のクライマックスです。ヨセフと兄弟たちとの和解の場面です。
  • 1. ヨセフと兄弟たちの和解の恵み (創世記45:14~16)

45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。

45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。

ヨセフは、兄弟たちに名乗り出て、和解します。

ヨセフは、母ラケルの同じ兄弟、愛する弟ベニヤミンを抱きしめ、ベニヤミンのヨセフの首を抱いて二人共に泣きました。ヨセフは、またすべての兄弟とも抱き合い、泣き合いました。

ここには、主によって魂が砕かれ、互いに赦し合い、愛し合う美しい兄弟愛を見ることができます。

ヨセフは、無条件の愛、赦し、和解を実現しました。ヨセフは、イエス様の与える赦しと和解のモデルです。

例話:『「水師営(すいしえい)の会見」

日露う戦争において、乃木将軍とステッセル将軍の水師営での会見は、世界に向かって「日本に武士道あり」ということを広く知らしめる結果を生んだ。勝者が敗者の立場を配慮した。

  • 2. 神の約束は実現する ~パロの配慮~ (創世記45:4~16)

45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。

45:17 ファラオはヨセフに言った。「おまえの兄弟たちに言うがよい。『こうしなさい。家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、

45:18 あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。』

45:19 おまえはこう命じなさい。『子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。

ファラオも、ファラオの家臣たちも大いに喜びました。ヨセフがどんなにエジプトにおいてファラオに信頼され、尊敬されていたかがよくわかりますね。

そしてヨセフの目の前で、信じられないことが起こっています。主の祝福の約束は続いています。主の約束は答えられています。主の祝福は20年間忘れられてはいません。

ファラオは、好意に満ちた申し出をしました。

第1は、父ヤコブと一族全員を、エジプトに招待するということです。

第2は、イスラエルの神の民に、エジプトの最良の土地を与え、最良の良い食物を与えるという事です。

第3は、父ヤコブや、女性と子どもたちのために、王の車を用意するということです。

第4は、エジプトの最良の家財道具も与えるということです。

このようにファラオの配慮は、どれだけヨセフに感謝しているかが、良くわかります。

ヨセフの目の前で、信じられないことが起こっています。主の祝福の約束は続いています。主の約束は答えられています。主の祝福は20年間忘れられてはいません。

耳を疑います。「ヨセフは、神が先に私をエジプトにお遣わしになられたのです」と言います。

自分をエジプトに遣わしたのは神であって、飢饉からイスラエルを救うために、自分を先にエジプトに遣わされたのです。私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

兄たちを責めようとはしませんでした。聖書を読む者を感動させずにはおかない物語です。

なんという赦し、なんという視野でしょうか?ヨセフは、奴隷として売られ、おしんのように、苦難の道を歩まされたのですが、ヨセフの兄たちへの言葉の中には、ひとかけらの憎しみや怒りも認められません。それは、彼が、人の目ではなく、神の目、神の視点で物事を見るようにされているからです。

 

  • ヨセフのような人生の見方を「神中心」と言います。

少年の時から、また苦難を通して、鍛えられた神の摂理の信仰によって、いつも鳥が大空の上から俯瞰的に見るように、地上の出来事も神の目をもって見るように訓練されていました。

ですから、自分を奴隷として売った兄たちに目を向けるのではなく、その背後にあって、ヨセフをエジプトに遣わされた主に目を注ぎ、主の視点、主の立場で物事を見たのです。

私たちも、私たちも、「神中心」の人生になりましょう!皆さんアーメンですか?

  • 結論:「主の目をもって物事を見ましょう」

❶ 主の目をもって物事を見る時、第1に、私たちは、人を赦せるようになります。

ヨセフは、兄たちのひどい仕打ちを赦しました。それは自分の苦難の意味を知ることができたからです。ヨセフがエジプトに下って、イスラエルの神の民を救う備えの為であったことが、はっきりと分かったからです。私たちが主の目をもって物事を見る時、私たちも人を赦せるようになります。皆さんアーメンですか?

❷ 主の目をもって物事を見る時、第2に、私たちは、使命感が与えられます。

ヨセフは、イスラエルを救うため、父ヤコブをはじめ、イスラエルのすべの民をエジプトに迎える用意をしました。私たちも主の目をもって、物事を見る時に、私たちは、遣わされた家庭や学校、職場で、教会で、自分に与えられた使命、ミッションが与えられます。そして、チャレンジすることができます。私たちも主からの使命とビジョンを求めましょう。皆さんアーメンですか?

❸ 主の目をもって物事を見る時、第3に、私たちは、すべての出来事には意味があることを悟るのです。

私たちの人生には、良いことも、悪いことも起こります。主の目をもって物事を見る時、そのすべてには

意味があったのだと悟るのです。

ヨセフは、イエス様のひな型であるということを見ました。同時に、現代に生きる私たちの模範・クリスチャンのひな型です。神の摂理の不思議さを見出すことは、現代の私たちに対する励ましです。

(ローマ8章28節)「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

  • 例話:「南アフリカ共和国で大統領になったマンデラ氏」は、牢獄で27年間過ごしました。しかし牢獄は、マンデラ氏を破壊できませんでした。「真の自由は、単に鎖から解放されることではなく、他の人の自由を尊重し、保証する人生を意味します。人生の最も偉大な栄光は、一度も失敗しないことではなく、失敗するたびに再び立ち上がるところにあります。」と言っています。
  • ヨセフは、神の「摂理の信仰」に生きた人です。私たちもヨセフのように、「神の主権を人生のあらゆるところに仰ぎ見て、自分の人生を顧みる者」とさせていただきましょう。鷲が大空を高く舞い上がり、空中から地上をながめるように、主の目をもって、物事をおおらかに見ると、すべての営みには意味があり、無駄がないことを主は教えてくださいます。ヨセフの神の摂理の信仰に倣いましょう。そして、主の目をもって歩みましょう! 皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。「愛する主よ。あなたこそ、すべての栄誉と栄光を受けるに相応しいお方です。ヨセフのように、私たちにも神中心の人生の見方を得させてください。そして主の目をもって、①人を赦し、②使命を与えられ、③すべての出来事に意味があることを信じ、現在のコロナ禍の苦しみの中にあっても、マンデラ大統領のように立ち上がり、前進することができますように、聖霊様の励ましと油注ぎをおひとりおひとりに与えてください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」

『主が先に遣わされた ~ヨセフと兄弟たちとの和解~』 2021年2月21日 聖書:創世記45章1~16節 

聖書:創世記45章1~16節

  • 45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

45:2 ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。

45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。

  • 45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

45:5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

45:6 というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。

  • 45:7 神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。

45:8 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

45:9 どうか、急いで父上のところに上って行き、言ってください。『息子のヨセフがこう言いました。「神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。

  • 45:10 ゴシェンの地に住んで、私の近くにいてください。父上も、子と孫、羊と牛、また父上に属するすべてのものも。

45:11 飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう」と。』

45:12 さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。

45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」

  • 45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。

45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、ファラオの家に伝えられると、ファラオもその家臣たちも喜んだ。

  • 序。さあ、いよいよヨセフの物語のクライマックスです。ヨセフと兄弟たちとの和解の場面です。

 

  • 1. 私はヨセフです (創世記45:1~3)

 

45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

45:2 ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。

45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。

ヨセフは、兄弟たちが罪を悔いている様子や、ユダの命がけの身代わりの申出を受けて、ついに自分を制し切れなりました。エジプト人の側近たちを去らせて、大声を上げて泣きます。

そしてついに、ヨセフは、自分の身を証します。「私はヨセフです。」

兄弟たちは、ヨセフを前にして、驚きのありまり、一同、唖然とする兄弟たちです。

「私は、弟のヨセフです」と言われて、初めて、まじまじとヨセフの顔を見上げる兄弟たち、そういえば、面影は確かにヨセフと気づきます。「こんなことがあるなんて、」

確かに、このエジプトの総理大臣は、しきりと家族のことを聞き出そうとしていた。父のこと、弟ベニヤミンのこと、おまけに、袋には代金の銀を返してくれた。今になってすべてがわかった!

「あ~ヨセフは生きていてくれた。あの日以来、寝覚めが悪く、心が責められていた。でも今、名乗りを上げたのは、リベンジのため、自分たちに復讐するつりではないか?」

「よくもあの時、寄ってたかって、穴に突き落として、エジプトに売り飛ばしたな!今度はこっちの番だ!」とばかりに、報復されるのではないか?

ヨセフは、語ります。

 

  • 2.主が私を遣わされた ~神の摂理~ (創世記45:4~16)

 

45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

45:5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

これは、聞く者の目が開かれる言葉ではないでしょうか?

兄たちは、耳を疑います。「ヨセフは、神が先に私をエジプトにお遣わしになられたのです」

自分をエジプトに遣わしたのは神であって、飢饉からイスラエルを救うために、主が自分を先にエジプトに遣わされたのです。私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

兄たちを責めようとはしませでした。聖書を読む者を感動させずにはおかない物語です。

なんという赦し、なんという視野でしょうか?ヨセフは、奴隷として売られ、おしんのように、苦難の道を歩まされたのですが、ヨセフの兄たちへの言葉の中には、ひとかけらの憎しみや怒りも認められません。それは、彼が、人の目ではなく、神の目、神の視点で物事を見るようにされているからです。

しかも、この先、5年間は飢饉が続くので、私たちが生き伸びるために主が先に私を遣わされたのです。私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。

ヨセフは、兄たちを責めようとはしませでした。聖書を読む者を感動させずにはおかない物語です。

そして父ヤコブと一族を伴って、このエジプトに住まいと土地を用紙しますから、共に暮らしましょうと勧めるのです

 

  • 例話:『ある盲人』 の方が言いました。「神は私の人生に砥石(といし)を与えて、私を研いでくださるのです」 この人の砥石とは、「苦しみ」のことです。他人から受ける苦しみ、環境による悲しみ、肉体の病、そのようなすべては神から与えられたものとこの盲人の方は受けとめているのです。だからこの人は、他人を恨んだり、自分の環境や境遇を嘆いたりすることもなく、いつも明るく、ほがらかです。だから、いつも勝利者であるのです。

私たちは、色々な出来事の背後に神の配慮、神の摂理があることを忘れやすいのです。苦しい事が起きると、その原因となった人を恨んだり、自分の環境に失望し、自信や希望を失ったりしやすいのです。

  • ヨセフのような人生の見方を「神中心」と言うのです。

少年の時から、また苦難を通して、鍛えられた神の摂理の信仰によって、いつも鳥が大空の上から俯瞰的に見るように、地上の出来事も神の目をもって、物事を見るように訓練されていました。

ですから、自分を奴隷と売った兄たちに目を向けるのではなく、その背後にあって、ヨセフをエジプトに遣わされた主の目を注ぎ、主の視点、主の立場で物事を見たのです。

私たちも、私たちも、「神中心」の人生になりましょう!皆さんアーメンですか?

 

  • 結論:「主の目をもって物事を見ましょう」

 

❶ 主の目をもって物事を見る時、第1に、私たちは、人を赦せるようになります。

ヨセフは、兄たちのひどい仕打ちを赦しました。それは自分の苦難の意味を知ることができたからです。ヨセフがエジプトに下って、イスラエルの神の民を救う備えの為であったことが、はっきりと分かったからです。私たちの主の目をもって物事を見る時、私たちも人を赦せるようになります。皆さんアーメンですか?

 

❷ 主の目をもって物事を見る時、第2に、私たちは、使命感が与えられます。

ヨセフは、イスラエルを救うため、父ヤコブをはじめ、イスラエルのすべの民をエジプトに迎える用意をしました。私たちも主の目をもって、物事を見る時に、私たちは、この時代に、遣わされた家庭や学校、職場で、教会で、自分に与えられた使命、ミッションが与えられます。そして、チャレンジすることができます。私たちも主からの使命とビジョンを求めましょう。皆さんアーメンですか?

 

❸ 主の目をもって物事を見る時、第3に、私たちは、すべての出来事には意味があることを悟るのです。私たちの人生には、良いことも、悪いことも起こります。主の目をもって物事を見る時、そのすべてには

意味があったのだと悟るのです。

ヨセフは、イエス様のひな型であると見ました。同時に、現代に生きる私たちの模範・クリスチャンのひな型です。神の摂理の不思議さと、あり難さを見出すことは、現代の私たちに対する励ましです。

第1に、赦し・和解のひな型です。第2に、すべての事を神の摂理の中でとらえる信仰は、私たちも、持つべき予型、ひな型です。(ローマ8章28節)「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

  • 例話:「南アフリカ共和国で大統領になったマンデラ氏」は、牢獄で27年間過ごしました。しかし牢獄は、マンデラ氏を破壊できませんでした。「真の自由は、単に鎖から解放されることではなく、他の人の自由を尊重し、保証する人生を意味します。人生の最も偉大な栄光は、一度も失敗しないことではなく、失敗するたびに再び立ち上がるところにあります」と言っています。
  • ヨセフは、神の「摂理の信仰」に生きた人です。私たちもヨセフのように、「神の主権を人生のあらゆるところに仰ぎ見て、自分の人生を顧みる者とさせていただきましょう。鷲が大空を高く舞い上がり、空中から地上のながめるように、主の目をもって物事を、おおらかに、神の視点で見る、すべての営みには意味があり、無駄はなく、やがて主がその意味を教えてくださいます。ヨセフの神の摂理の信仰に倣いましょう!

そして、主の目をもって歩みましょう! 皆さんアーメンですか? お祈りいたしましょう。

「愛する主よ。あなたこそ、すべての栄誉と栄光を受けるに相応しいお方です。ヨセフのように、私たちも神中心の人生の見方を得させてください。そして主の目をもって、①人を赦し、②使命を与えられ、③すべての出来事に意味があることを信じ、現在のコロナ禍の苦しみの中に、あってもマンデラ大統領のように、失敗して立ち上がり、前進することができますように、聖霊様の励ましと油注ぎをおひとりひとrに与えてください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。」

『信仰のテスト 』2021年2月14日 創世記44章1~34節 

オンライン礼拝 『信仰のテスト ~ヨセフと11人の兄弟たち~ 』

聖書:創世記44章1~34節

  • 44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。

44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。

44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。

44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。

44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」

44:6 彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。

44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。

44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。

44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」

44:10 彼は言った。「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」

44:11 彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。

44:12 彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。

44:13 彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。

44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にやって来たとき、ヨセフはまだ、そこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。

44:15 ヨセフは彼らに言った。「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」

44:16 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」

  • 序. 今日のテーマは「信仰のテスト」です。

父ヤコブの命に従って、子どもたちは、再びエジプトに穀物の買い出しに来ました。2回目です。

第1回目の時は、スパイの疑いをかけられて、兄弟の一人次男シメオンが人質となりました。

しかし、第2回目は、エジプトの総理大臣となっていたヨセフは、兄弟たちの中に弟ベニヤミンがいるのを見て、全員を食事に招待してもてなしました。人質となっていた次男シメオンも返してもらい、皆、胸を撫でおろしました。食料を十分に買い出して、早く年老いたヤコブの待つカナンの家に帰ろうとします。

ヨセフは、兄弟たちをテストしているのです。

今回、第2回目は、兄弟たちが自分に対して犯した罪を本当に悔い改めるかをテストします。そして兄弟たちが、本当に弟ベニヤミンを愛し、父を愛しているのかの最後のテストをすることになります。

具体的には、前回は、次男シメオンを人質として試しましたが、今回は末の弟ベニヤミンを袋に銀の杯を忍び込ませて、言いがかりをしてみるのです。

 

  • 1. ヨセフのテスト (創世記44章16~34節)

 

44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。

44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。

44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。

ヨセフは、家の管理者に兄弟たちの袋いっぱいに穀物を満たして、銀を袋に戻しておくように命じます。さらに、ヨセフは、自分の「銀の杯」を末の弟ベニヤミンの袋の中に入れるように命じます。

明け方、兄弟たちは、ロバと一緒にエジプトを後にして出発します。

「やれやれ、食料は充分に買うこともできた。人質にされていたシメオンも取り戻した。おまけにあれほど父ヤコブが心配していた末の弟ベニヤミンをも、ちゃんといっしょだ! 万事OK!」

兄弟11人は、年老いた父ヤコブと家族が待つ、故郷カナンへと向かいます。

ところがドッコイ!もう一つの関門があったのです。頃合を見計らいヨセフは、兄弟たちの後を追わせます。

 

  • 44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。

44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」

 

「待て、待て~。」言葉も荒々しく総理大臣の使者です。 そして、いきなり、泥棒呼ばわりです。

「お前たちは、あのようなエジプトの総理大臣の特別なもてなしを受けながら、なぜ、大切にしている銀の杯を盗みおったのか~?」と迫るのです。

せっかく、天下晴れて故郷を目指していた11人の兄弟たちは、これを聞いて、顔面蒼白です。前回は、スパイ呼ばわりでした。今度は、盗っ人、泥棒呼ばわりなのです。

 

愛する皆さん、同じように、私たちの心が、どのようなものであるかを主は試されます。

信仰のテストをします。 家族や友が教会の兄弟姉妹が窮地に陥った時、どうなってもよいと思うのか?それとも何とかしたいと思うか? そこで自分の罪に気付かされ、私たちの罪として、家族の一体性もって、あるいは教会の一体性をもって悔い改めることが出来るかどうかを試されます。

 

  • 44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。

44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。

44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」

「濡れ衣です。私たちは、あなた様のご主人様のご恩を仇で返すなどとは、思いもよらないことです。もしも、銀の杯が、私たち11人の誰かの袋の中にありましたら、どうぞ殺してください。そして、私たち一同は、あなた様の奴隷となります。」 体を張って申し開きしました。

ヨセフの使者は、「よくぞ言った。もしも見つかったら、その者は奴隷にするぞ!」と言って、ひとりひとりの荷物を検査することになります。兄弟たちは、不安の中で、一人一人の袋を開けて、見せます。

年齢の順に、まずは長男ルベンの袋から開けます。無い。よかった。次は次男シメオンの番です。

みな緊張します。何しろ、シメオンは人質に囚われていた恨みもあります。ビクビクして、袋を開けられて、無い。一安心。こうして三男レビ、四男ユダ、五男ダンと順々に荷物が改められていくうちに、最後末の弟ベニヤミンの番になります。「これで検査も終わりだ」と一同が腰を上げようとした時です。

「あった。あったぞ、銀の杯だ!」まさか末の弟ベニヤミンの袋の中から銀の杯が、見つかるとは、一同絶句です。東京オリンピックの森会長の女性蔑視発言を聞いた東京都の小池知事は、思わず、絶句したそうですが、11人の兄弟たちも絶句してしまいました。ベニヤミンも、何が何だかわらずに蒼くなるばかりでした。ここからがヨセフの最後のテストの始まりです。

 

  • 2. ユダのとりなし ~身代わりとなる~ (創世記44章16~34節)

 

兄弟たちは、ベニヤミンを見捨てずに、全員で町に引き返しました。そしてヨセフにひれ伏して、4男のユダが代表して、答えます。

44:16 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」

 

ユダは、ベニヤミンの個人の咎ではなく、自分たちの咎としてとらえています。兄弟たちは、単に金の杯の件だけではなく、ヨセフを奴隷として売った罪を自覚していることを示しています。

「神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」 だから、「今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」と言って、全員で責任を取ろうとしています。

 

こうして兄弟たちは、互いに互いのことを非難するのではなく、神の御前に、ヨセフの前に、自分たちの罪を認め、共に責任を負うことによって、神の民としての一体性を自覚しています。

ダニエル書で、旧約の預言者ダニエルは、同胞のイスラエルの民の不信仰と罪を他人ごとではなく。「私たちは罪を犯しました」と告白し、断食して祈りました。(ダニエル9:3~5)

このように神の御前に、神の民として一体性の自覚は「私たちの罪」という認識から始まります。

 

時々、「この教会には愛がない、牧師には愛がない、信徒にも愛がない」などと言いう人がおられます。

これは自分を第三者の立場に置いた発言です。私たちは、むしろキリストの体である教会の一員として「私たちの教会、いいえ私たちには愛がない」と主の前に自分の弱さ、罪を自覚する時、私たちは主の前に、キリストの体である教会の一員であるという自覚、教会の一体性が生まれます。私たちは、1つであるという自覚が生まれ、キリストによって赦されている、深い愛によって互いに結び合わせられるのです。

話は戻りますが、ヨセフは、末の弟ベニヤミンだけを残して、奴隷になればよいというのです。

そこで、4男ユダは、必死にヨセフに執り成しをするのです。

 

  • 第1に、父ヤコブの悲しみを伝える。(44:18~32)

 

44:30 私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、

44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。

ユダは、父ヤコブと末の弟ベニヤミンとの関係を語ります。この弟ベニヤミンを一人見捨てて変えることは出来ません。末の弟ベニヤミンには母を同じくする一人の兄がいました。その兄は死にました。いや、その兄は獣に裂かれて死んだことになっています。父ヤコブは、その兄ヨセフを失ったことで、深く悲しんでいます。もし、ベニヤミンをも失えば、白髪頭の父を、苦しみながら黄泉に降らせることになってしまうのですと、父の苦しみを伝えるのです。

 

  • 第2に、ユダは、身代わりとなる。(創世記44:33~34)

 

44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

44:34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」

 

どうか今、このしもべを、あの子(ベニヤミン)の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。あの子がいっしょでなくて、どうして私は、父のところへ、帰れましょうか。私は、父に起こるわざわいを見たくはありません。なんと、ユダは、弟ベニヤミンの身代わりになりますと申し出たのです。自分の捨て身の作戦です。

44章16節では「私たち一同が奴隷になります。」と言っていましたが、ヨセフの前では、ユダは、「私ひとりが、身代わりになります」と申し出ます。これはユダの兄弟愛、親孝行、そして自己犠牲です。

 

イエス様は、自己犠牲について語られました。

(ヨハネの福音書15:13) 「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

ユダという人は、かつてはヨセフを奴隷として売る陰謀の首謀者でした。そのユダが、ベニヤミンの罪の責任を身代わりに背負う者へと、主によって造り変えられています。

 

「責任を負うとは、自己犠牲をもって、決意し、勇気をもって遂行することです。」

主は、たとえ自分勝手な人間であっても、聖霊様は造り変えて下さるお方です。

 

救い主イエス様は、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で、ご自身の命を犠牲にして、罪の赦しと救いを完成してくださいました。ですから、救い主イエス様は、マタイ1章の系図で明らかなように、このユダの子孫から、誕生されます。 ユダが選ばれたのも、納得できますね。ユダが、他の兄弟すべての身代わりとなり、自分の命を差し出したように、イエス様は、私たちすべての者の受ける、罪のさばきを一身に背負ってくださいました。この創世記44章の物語には、やがて来られる全人類の救い主のひな型となっています。 主イエス様の大きな犠牲の愛に感謝しましょう。

 

  • 結論: 「あなたもとりなす者になりましょう!」

 

❶主は、苦しみの時、周りの人をご覧にならます。

 

ヨセフは、銀の杯のことで、末の弟ベニヤミンに対して、兄たちがどんな態度をとるのかをテストしますた。末の弟ベニヤミンが苦境に落ちった時、兄弟全員がベニヤミンと一緒にエジプトに引き返しました。

そして四男のユダは、、自分の命を差し出し、自己犠牲をもって、ベニヤミンを守ったのです。

これはとても大切なことです。

家族の中で、学校や職場の中で、誰から窮地に陥る、受験で失敗する。病気になる。事故に遭う。失敗したり、失業する。そのようなことが起こった時、主の目は、その人でなく、その人の周りの人々に注がれるのです。このことに気づいておられますか? 今日の私たちも同じです。主は苦しみにあった人ではなく、苦しみにあっていない周りの人を調べられます。苦しんでいる人を見て、他人事のように傍観し、自分とは無関係と装うのか? 私たちのこととして、受け止めて、共に苦しみを担うのか?一部分が苦しめば、すべて部分が共に苦しむのです。

 

(第Ⅰコリント12章26~27)

12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

家庭でも、学校や職場でも、教会でも同じです。他人事ではなく、私たちのこととして、自分のことと受け止めて、共に苦しみを担う者とさせていただきましょう。皆さんアーメンですか?

 

❷主の執り成しの祈りをささげましょう!

44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。

ユダは、家族の危機の時、ベニヤミンのために決死の思いで、とりなしをしました。

ユダのとりなしは、私たちの模範です。ユダは、事実を曲げずに、正直に、罪を告白し、とりなしました。

ユダがベニヤミンのために、とりなしたように、私たちのために、命をかけて執り成してくださったお方がおられます。それはイエス様です。ゲッセマネの園で、血の汗を流して、とりなし、私たちの救のために十字架に命を捨ててくださいました。そして聖霊様は、弱い私たちひとりひとりのために、今もとりなしていてくださいます。

ローマ8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

ですから、私たちも、聖霊様の助けを頂いて、愛する家族のために、また友のために、職場の人々のため救いと祝福のために、主にとりなしの祈りをささげましょう。皆さんアーメンですか?

 

お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の麗しい御名を賛美します。

主の復活の主日にオンライン礼拝を通して、共に主に礼拝をささげる恵みを感謝いたします。

ヤコブの家族と子どもたちのように、私たちの家族や学校、職場、教会でも、様々な出来事、問題が起こります。その時、主はその人の周りの人々をご覧になられます。そして他人事とように傍観し、無関心を装うのか、それとも私たちのこと、自分のこととして受け止めて、自己犠牲をもって、その課題を担い、家族が、教会が1つとされて、危機を乗り越え勝利することができますように、また、ユダのように、愛する家族、友の課題のために、また救いのために、教会のために執り成しの祈りをささげ、主に仕え、主の祝福をを共に受けることができましょうに、お一人お一人を助け導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します。」

『 夢は実現する 』 2021年1月24日  旧約聖書・創世記42章1~8節  

旧約聖書・創世記42章1~8節

  • 42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った 。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」

42:2 さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」

42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。

  • 42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。

42:5 こうしてイスラエルの息子たちは人々に混じって穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。

42:6 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。

  • 42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」

42:8 ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。

 

  • 序。ヨセフの夢の解き明かしのように、神の預言は実現しました。7年間の大豊作の後、大飢饉がやってきました。その飢饉は、エジプトだけではなく、世界全域に広がりました。

 

  • 1. 7年の飢饉が始まる  (創世記42:1~5)

 

42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った 。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」

42:2 さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」

 

七年間もの長い期間、全世界は飢饉となり、作物が取れなくなりました。ヤコブ一家が住んでいるカナンの地でも作物が取れません。羊を飼うヤコブ一家にとっても、存亡の危機です。羊毛を売ったお金で、小麦粉を買うことができなくなったからです。「このままでは家族全員が飢え死にする」と家長のヤコブは危機感を募らせていました。

ところが十一人の息子たちは、互いの顔を見合わせているだけで、行動しようとはしません。それで、ヤコブは、息子たちに、エジプトに、穀物を買うために出かけるように命じます。

 

  • 42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。

42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。

ヤコブは、末っ子ベニヤミンだけは、自分の所に残します。ヨセフのように失うことがあってはならないと考えたからです。

 

  • 42:5 「こうしてイスラエルの息子たちは人々に混じって穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。」 こうして兄弟たちは、父ヤコブにエジプトに送り出されますが、行く時も、エジプトに行く人々の中に混じっていきます。

ですから彼らは、エジプトに行くことをためらい、躊躇していたのです。

  • 例話:『良心というやつは、人を臆病にしてしまうものだ。』 これは、有名なイギリスの劇作家シェイクスピアの「リチャード三世」の中の言葉です。シェイクスピアは、人は、誰にも「良心」というものがあって、大きな過ちを犯してしまった時、その記憶がいつまでもつきまとい、犯した過ちに対する、良心の呵責があるので、人は臆病になるというわけです。
  • エジプトには食物があることを父ヤコブは知っていたならば、息子たちも当然知っていたはずです。

けれども、なぜ彼らは自ら積極的にエジプトに行こうとしなかったのでしょう。それは、父に話していない過去の罪が彼らにあるからです。これは、ヨセフをエジプトに奴隷として銀20枚で売り飛ばした罪の記憶で悩んでいたのです。そして、自分たちのやったことを隠すために、ヨセフが死んだと父ヤコブを騙しました。ですから、「エジプト」という言葉を聞くだけでも、彼らは、良心が痛んだはずです。

しかし、主は、そんな兄たちを、行きたくない所へと追いやられます。それが罪の解決の道だからです。

私たちも罪の記憶のために悩んでいるだけであってはなりません。悩みを避けることは、解決の道ではないからです。聖霊様の導きに気づき、それを知ったならば、自分の罪を罪として告白し、謝罪する道へと踏み出さなくてはなりません。そこに完全な解決が備えられています。

 

私たちも、聖霊様に罪を示された時は、素直に主の前に悔い改め、主の赦しと和解を求めましょう!

 

  • 2. 夢は実現する (創世記42:6~7)

 

42:6 ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。

  • 42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」

 

❶ ヨセフの見た夢  (創世記37章6~7節)

 

エジプトに到着した、ヨセフの兄たちは、エジプトの権力者、総理大臣の前に、顔を地に付けて、ひれ伏しました。10人の兄弟たちには、目の前のエジプトの権力者が、自分たちの兄弟であるとは思いもしません。

ヨセフは、この時、かつてカナンの地で見た子どもの頃の夢を思い出しました。

(創世記37章6~7節)

37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。

37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。

麦畑の中で、兄たちの束が、私の束のまわりに来て、伏し拝むという夢を、主はヨセフに見させて、長い年月の後に、その夢を実現されたのです。

兄たちは、ヨセフの夢を打ち砕こうとして、ドタンの穴の中にヨセフを突き落とし、ヨセフをエジプトに奴隷として売りました。父ヤコブには、父の愛の象徴であった、袖付きの長服を引き裂き、雄ヤギの血に浸し、獣に食い殺されたと父を騙しました。 しかし、主は、このような人間の様々な悪意や妨害にもかかわらず、ご自身のご計画を着々と実現されるのです。

かつては、高慢であったヨセフは、謙遜な人へと造り変えられました。ヨセフは、夢の実現に向かいます。

  • (旧約聖書・イザヤ書55章11節)「 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」

あなたへの主のご計画は実現します。皆さんアーメンですか?

 

❷ ヤコブの見た夢

 

42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。

ヤコブはこれまでに、数多くの修羅場を抜けてきました。しかし、痛みも限界を超えると、傷になっていつまでも心に残り、尾を引くようになります。

昔、最愛の息子ヨセフを失ったヤコブです。大飢饉で食料が底を尽きました。ヤコブは、エジプトに子どもたちを遣わすことを決意しました。

けれどもその瞬間、年寄り子のヨセフを失った辛い経験が頭をよぎりました。悲しみは恐れとなって、4節のように、ヨセフの弟で12番目のベニヤミンに、わざわいが降りかかることを恐れて、ベニヤミンひとりを自分の所に残したのです。

大きな痛み、過去のトラウマがネックとなりヤコブを消極的な老人にしていたのです。

いつも最悪ことを想定して、手も足も出ないような、悪いパターンがヤコブには定着していたようです。あなたはいかがですか?

しかし、主は、一度閉じてしまったヤコブの固い心を、今もう一度、介入して、開こうとしています。

ヤコブを、光の世界へと引き出して、かつてヤコブが見た夢のように、主が約束された世界の祝福の基となるというビジョン、夢に向かってゆくことになるのです。

  • ここからあとは、一直線に、創世記の終わり、クライマックスの、どんでん返しのドラマが始まろうとしていたのです。

やがて、ヤコブは、ヨセフと再会します。死んで失ったはずのヨセフと、人生の終わりに、しかも異国の地エジプトで、劇的に再会するのです。 信じられない、考えてもみたこともないことです。しかも、失ったはずのあのヨセフは、今は、世界最大の帝国エジプトの総理大臣の地位にあるというのです。固く閉ざしていたヤコブの心も開かれます。

あまりにも壮大な、神の用意されたドラマです。すべてに後ろ向きで、後悔に、後悔を重ねたヤコブの人生の晩年を一気にひっくり返すのです。

 

  • 結論: あなたの夢は実現する●

 

(第Ⅰコリント 2:9 )「しかし、このことは、『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった』と書いてあるとおりでした。」

 

あなたも、ヤコブのように過去の失敗や痛み、トラウマで、恐れ、心を閉ざしておられるかも知れません。

あなたも、主に向かって心を開きましょう。主はあなたの人生に大きな計画を用意しておられます。それは将来の進路であったり、新しい学び、新しい仕事、新しい人間関係、新しい教会の奉仕、家族の救いかも知れません。主は、あなたのために用意しておられるビジョンと夢を実現してくださるのです。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう。

「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の神の御名を賛美します。コロナ禍の中で、今日もオンライン礼拝を感謝します。感染された方が癒されますように、行政や医療の最前線で奮闘されている方々を支え励ましてください。

あなたは私たちに夢を見させて、私たちの人生に希望を与え、ご計画があることを感謝します。聖霊様、私たちの心をあなたに向かって開かせ、私たちが目で見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、あなたが愛する者たちに備えてくださった、素晴らしい夢が、おひとりおひとりに実現させてください。御言葉を感謝し、主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します。」

『 神の国を生きる ~ヨセフの信仰~』 2021年1月17日 創世記41章50〜57節 

  • 41:50 飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。

41:51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

41:52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。

  • 41:53 エジプトの地での豊作の七年が終わると、

41:54 ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々に臨んだが、エジプト全土には食物があった。

41:55 やがて、エジプト全土が飢えると、その民はファラオに食物を求めて叫んだ。ファラオは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、ヨセフの言うとおりにせよ。」

  • 41:56 飢饉は地の全面に及んだ。ヨセフはすべての穀物倉を開けて、エジプト人に売った。その飢饉はエジプトの地でもひどくなった。

41:57 全地は、穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに来た。その飢饉が全地で厳しかったからである。

  • 序、今日からオンライン礼拝に移行します。
  • 聖書は「すべての営みには時がある。」と伝道者の書3章で語っています。
  • 先日、改めて、時があることを教えられました。牧師館の庭に小さな菜園があり、野菜を作っています。小松菜の種を蒔いて、芽が出て、そろそろ収穫を考えていましたが、朝、ヒヨドリにすべての小松菜を食べられてしまいました。自然界の小鳥は食べるのに一番良い時を知っているのです。改めて「すべての営みには時がある」と教えられました。

さて、我らの創世記のヨセフの生涯も、神の時が来ました。

ヨセフの生涯は、逆転の人生です。17歳で奴隷として売られ、やがて濡れ衣を着せられて、監獄の囚人となりました。しかし30歳の時にエジプトの総理大臣となり、23年間の労苦が実を結びました。そしてヨセフを通して、神の豊かな実りを周囲の人々にもたらすことが出来ました。私たちも苦しみを通して、苦しみの中で、主の恵みを体験し、主によって豊かな実を結び、祝福をもたらす者とされます。今日は、ヨセフの信仰について御言葉を受けましょう!

 

  • 1.みことばに生きる信仰の人 (創世記41:53~57)

 

エジプトは、大豊作の7年が終わると、ヨセフの預言の通りに飢饉が始まりました。

エジプトのみならず、全世界が飢饉となります。でもエジプトだけに、食料は豊かにあったのです。

このことで、とりわけエジプトの王ファラオは、神の御言葉の力を実感し、思い知ったと思います。恐るべし、神の御言葉の力です。ヨセフの夢の解き明かしです。

ファラオは、身をもって神の力を体験しました。神の御言葉は必ず成就することを体験しました。

そして世界中から、穀物を買いにヨセフのもとにやってきました。

  • (マタイ 24:35)「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

神の御言葉の通りに世界は動くのです。ヨセフは、神の御言葉を信じ、御言葉に従って、生きました。エジプトの人々は神のみことばに導かれ、滅びを免れました。

ヨセフの信仰は、神のみことばに従って生きる信仰でした。私たちも、御言葉に立ち、みことばに聴き従う信仰をこれからも、ご一緒に歩みましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 2.信仰の中にアイデンティティーを持つ人

 

ヨセフは、エジプトの言葉を話し、エジプトの名前を与えられ、エジプト人を妻として、あたかもエジプト人のようになりました。しかし、真の神様、主に対する信仰だけは失わなっかたのです。

ヨセフは、父の家を忘れ、人間的な絆のすべてを失ったように思われましたが、主に対する信仰によって、真のイスラエルの民であり続けたのです。

 

  • 今月30日、田内宣教師ご家族が帰国されます。宣教師が外国の宣教地に遣われると3つのことを経験するそうです。

第1段階は、初めは、その国の文化や習慣が珍しく、見ること聞くことの1つ1つが興奮のネタになるそうです。

しかし、第2段階になって、その国の人々や文化が少しずつ分かってくると、今度はその欠点が目に付き、自国の人々や文化と比較して、批判するようになります。

やがて、第3段階になると、国の文化や習慣を客観的に見えるようになり、それにつれて、その国の文化や習慣の良い所と悪い所を冷静に見ることができるようになり、お互いを認めつつ、良き交わりができるようになるというのです。

 

  • そういえば、ヨーロッパからアメリカに移住した人は同じような経験したそうです。

第1世代の人々は、異国にあって、自分の母国の言葉・文化・習慣の中に、自分のアイデンティティーを見出そうとして、これに固執します。

しかし、第2世代の人々は、それに反発して、アメリカ人やブラジル人になりきろうとして、自分の先祖の言葉、文化・習慣を捨てると言います。日本から、アメリカに移住した2世たちも、アメリカ人になろうと努力するそうです。

更に第3世代になると、自分たちのアイデンティティーを、先祖が信じた信仰の中に求めるようになったそうです。

 

  • ヨセフの場合も恐らく同じような経験をしたのではないでしょうか?

ヨセフは、父の家の生活や習慣にではなく、またエジプトの文化や習慣にでもなく、「天地万物の造り主、真の神が共におられる」この信仰の中に自分のアイデンティティーを見出したのです。

 

海外で生活した人が、クリスチャンとなる数と日本でクリスチャンになる数がほぼ同じだと聞きました。それは、日本にいる時よりも、海外での生活に、自分のアイデンティティーは何か?

自分はどう生きるべきか? を考えるようになります。

そして国が変わり、住む所は変わっても、自分を生かし、支えていてくださる主を知り、真の神様の中に自分の本当の存在基盤を見出すのでしょう。だからイエス様を求め、イエス様を信じて、クリスチャンになられる方が多いのだと思います。

そして、ただ日本人としてだけではなく、クリスチャンとして、真に国を愛することができて、自分の民族を愛する、真の国際人になることが出来るようになります

 

ヨセフも、エジプトの異教社会の中で、主ご自身の中に、本当のアイデンティティーを確立した、真の国際人と言えるでしょう。

 

  • 結論: 神の国を生きる

 

ヨセフは神の御言葉を固く信じ、御言葉に従いました。そして先祖、アブラハム以来の信仰の中に自分のアイデンティティーを見出した、信仰者として生涯を全うしたのです。

私たちも、国籍や人種は、違うかもしれません。日本人であったり、韓国人、中国人、あるいはフィリピンやアメリカ人、しかし、私たちは同時に、主イエス様を救い主と信じるクリスチャン

です。神の国の民として、この日本に遣わされています。

  • 例話:私は、KGK(キリスト者学生会)でOCFという留学生伝道の働きもしていました。

そこにブラジルで育った日本人の女子学生が来ました。彼女は、自分のアイデンティティーで悩んでいました。お父さんの仕事で、幼い時にブラジルに行きました。そこで現地の生活に溶け込もうと一生懸命に努力しました。ブラジルはラテン系ですからとても陽気で明るのです。彼女もとても明るい社交的な人でした。でも、ブラジルでの生活は、とても苦しかったそうです。どんなに努力して、ブラジル人になろうとしても、現地の人々は、「あなたは日本人だからね」と最終的にはよそ者扱いで、いつも疎外感を味わい、孤独を感じたそうです。

だから父の母国、日本に帰れば、きっと自分は受け入れてもらえる。そう思って日本に留学したのです。ところが念願の日本に来て、明るい陽気な彼女に対して、クラスメートや周りの人々には、「あなたはブラジルから来た人」と言われ、日本でも自分の居場所がないと悩んでいました。

でも最後には、「私は、ブラジル人になろうとしたり、日本人になろうとしましたが、私は、イエス様を信じる、神の国の民です。私の国籍は天にあります。私はこれからは天国人、神の国の市民として、どこででもイエス様と共に歩んで生きて行きます」と証してくれました。

 

  • (第Ⅰペテロ 2:10 )「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」

そうです。私たちの本当の国籍は、天にあります。そして主によって、この祖国日本に遣わされています。この国を愛し、人々を愛する真の愛国者です。そして、どこにあっても、イエス様を信じるクリスチャンは、天国人、神の国の民です。ヨセフのように信仰によって、神の国を生きる者とさせて頂きましょう。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう「愛する主よ。このコロナ禍の状況の中にある祖国を憐れんでください。感染された方々を速やかに癒し、医療関係者の働きをお守りください。主よ、御言葉を感謝します。世界は神の御言葉に支えられ、導かれています。私たちは、御言葉を信じ、イエス様を信じる信仰によって、神の民とされたことを感謝します。今週も私たちは、この国で、家庭で、学校や職場で、信仰によって、歩み、人々に仕えます。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

『忘却の恵みと結実の恵み ~ヨセフの生涯の祝福~』2021年1月10日 創世記41章46〜52節

  • 41:46 エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った。

41:47 さて、豊作の七年間に、地は豊かに実らせた。

41:48 ヨセフはエジプトの地で穫れた七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々に蓄えた。

町の周囲にある畑の食糧を、それぞれの町の中に蓄えたのである。

  • 41:49 ヨセフは穀物を、海の砂のように非常に多く蓄え、量りきれなくなったので、ついに量るのをやめた。

41:50 飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。

41:51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

  • 41:52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。
  • 序.ヨセフの生涯は、大逆転の人生です。ヨセフの生涯は、私たちへの励ましです。ヨセフの受けた2つの恵みの御言葉をご一緒に受けましょう。

 

  • 1.  忘却の恵み 「労苦を忘れさせる主」 (41:50~51)

 

41:50 飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。

41:51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

 

  • ヨセフは、30歳の時に、エジプトの総理大臣となり、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚します。そして二人の男の子が与えられます。長男のマナセとは「神が私のすべての労苦と私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」という意味です。

ヨセフの生涯の第1の恵みは、「忘却の恵み」です。

 

ヨセフの生涯は、まさに波乱万丈です。父ヤコブから一身に愛され、兄弟10人からは、嫉妬されて、憎まれて、エジプトに奴隷として売られてしまいました。17歳の少年ヨセフを銀20枚で買ったのは、エジプトの王ファラオに仕える侍従長ポテファルでした。主がヨセフを祝福されていることを知ったポテファルは、ヨセフに家のすべての管理を委ねました。

ところが人生は、一寸先は闇です。下り坂もあれば、上り坂もある、そしてまさか、という坂もあります。イケメンのヨセフは、主人の妻に毎日誘惑されて、それを拒み、濡れ衣を着せられ、監獄に入れられて、ついに囚人の身に落とされました。

しかし、主がいつもヨセフと共におられました。彼は祝福されて、監獄の管理の全てを委ねられます。ヨセフの監獄にファラオの側近である料理管長と献酌管長が、投獄されてきました。

彼らの見た夢を解き明かして助けてあげました。ところが献酌管長は恩人のヨセフのことを忘れていまします。そしてさらに2年の年月が流れます。

しかし、主はヨセフのこと決して忘れずに、神の時が満ちました。ある日、ファラオは夢を見ます。王の夢を解き明かすことが出来る者がいませんでした。その時、あの献酌管長が監獄のヨセフの事を思い出しました。一転して日の光も届かない監獄のヨセフが絢爛豪華な王宮のファラオの前に立ったのです。そして王の見た夢を解き明かします。しかも、それに対する解決策も具体的に提言しました。遂にヨセフは、王によって、総理大臣に任命されたのです。ヨセフの生涯は、23年の苦難の後の大逆転の人生です。

 

  • 「忘却の恵み」とは何でしょうか?

ヨセフは、過去をすべての出来事を忘れてしまったのでしょうか?

この忘却の恵みとは、何でしょうか? それは過去の苦い記憶を持たずに、過去の出来事を思い出せるようにしてくださったのです。これは大きな主の憐れみ、主の恵みです。

私たちは、年を取ると、昔のことを忘れてしまいますね。そして昔の辛かった思い出を忘れることは主の憐れみです。 これを『忘却の恵み』と言います。

 

私の献身の生涯は、この片柳教会で学生時代1年生の時に、イエス様に出会い、信じて救われました。そして召命が与えられて、献身しました。大学卒業後、KGK(キリスト者学生会)の主事となり大学生伝道の働きを4年、その後、東京基督神学校で3年学び、卒業と同時に結婚し、関西の武庫之荘教会の青年担当牧師として6年、その後、北九州の門司で開拓伝道6年、その後、この片柳教会に招聘を頂き、1999年9月より家族で赴任して現在に至っています。

伝道者として一番、困難や戦いが多かったのは九州での開拓伝道です。教会は、人も、経済も、すべてがほぼゼロからのスタートでした。

先日、お正月に家族で昔のことを振り返ってみました。すると一番困難が多く、霊的にも経済的に戦いが沢山あった開拓伝道の九州時代が一番楽しい想い出に満ちているのです。不思議ですね、辛かったことも、癒されて、楽しく語ることが出来ます。

 

「忘却の恵み」です。これは主の恵みです。人間には不可能です。なぜならば、過去の辛い記憶は、怒りや憎しみをかき立てるものです。「忘却の恵み」は、ヨセフが語っているように、「主のお働きによってのみ可能となる」のです。主だけがそれをすることがおできになります。

 

  • 主イエス様は、人間の肉体をまとって、2千年前のクリスマスに、この地上に来られました。御子イエス様は、人々の手によって沢山の苦しみを受け、傷つけられました。しかし、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」とイエス様は、人々を赦して、祈られました。(ルカ23:34)

ヨセフはイエス様のひな形、モデルです。

私たちは、たとえ「赦します」と言っても「決して忘れませんよ」と付け加えるのです。

過去を忘れることは容易なことではありません。過去の苦い経験を忘れることは、なおさら難しいことです。それは主から来るべきものなのです。

 

もし、あなたが過去の痛みと傷を忘れる事が出来ないのであれば、すべての事をカルバリーの十字架のもとへと携えて行く事です。十字架の下に、あなたのすべての重荷を下ろしましょう。

あなたに酷い事をした全ての人たちにイエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないからです」と祈られた、主のみことばを聞いてください。

主に赦しを求めましょう。あなたが赦すことができない人たちの為に、そしてあなた自身のためにです。あなたは、赦しを必要としています。赦そうとしない心が悪であると主が語っておられるからです。そして忘れる事ができるように主に求めましょう。赦しと忘却は、欠かせないからです。

  • (イザヤ書53:5)「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

あなたの罪の身代わりに受けられたイエス様の十字架の傷により、あなたは癒されたのです。

主はあなたの受けられた辛い過去を忘れさせてくださいます。皆さん安心してください。認知症ではありません。忘却の恵みに感謝しましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 2.  結実の恵み 「祝福へ導かれる主」 (41:52)

 

41:52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。

 

次男の「エフライム」とは「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」という意味です。 ヨセフの生涯の第2の恵みは、「結実の恵み」です。

ヨセフは、エジプトの総理大臣となり、国中を巡り歩き、働き、穀物を集め、蓄えました。

大豊作の7年の間、ヨセフの治めるエジプトの国は豊かになりました。

その頃、次男エフライムが生まれました。エフライムには「2倍の実り」という意味もあります。

ドラマの半沢直樹ではありませんが、主は私たちの受けた苦しみや痛みに対して「倍返し」です。「2倍返しの祝福」をもたらしてくださるのです。

 

  • ヨセフの第2の恵みは、「結実の恵み」です。

ヨセフは、苦難の地で、主がヨセフに実り豊かな者にしてくださるのを見たのです。

 

ヨセフは、外国の地で、苦難を受けました。奴隷になり、ヤコブの族長の息子の身分を失い、やがて囚人になり、自由も失いました。ヨセフは家族も、財産も、自由も、すべてを失いました。

しかし、ヨセフは失意と悲しみの中から、いつも主に向いました。主は彼を見捨てず、慰め、励まし、強め、立ち上がらせてくださいました。

人生七転び八起です。 主は、彼の失ったものを回復させ、エジプトの王ファラオに次ぐ総理大臣の身分と自由を与えました。さらに家族から引き離され無一文であったヨセフに、妻や子供たち家族と豊かな富をもお与えになったのです。実り豊かなヨセフの人生となりました。

主は「人生の結実の恵み」を与えられるお方です。

ヨセフは、過去から目を離し、主が未来に向かって、どんなに祝福されているかを知りました。

 

十字架が近づいた時、主イエス様は、ヨセフと同じように未来を見ておられました。

十字架の向こうに未来を見ておられたので、十字架の痛みに耐えられたのです。

  • そして、イエス様は一粒の麦の種が地に落ちて、死ぬことについて語られました。

(ヨハネ12:24)「 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

一粒の麦が死んだ時、多くの豊かな実りがもたらされるのです。イエス様の十字架の死は、全人類に救いをもたらしました。あなたも、自分の野心、肉の欲に死に、主の御心に従う時、あなたも豊かな実を結びます。主はあなたにも「結実の恵み」を与えられます。皆さんアーメンですか?

  • 結 論:「主は、あなたに、2つの実を結ばせてくださる。」

 

まとめましょう!

  • 第1は「忘却の恵み」です。

あなたが、辛い過去から、未来に向かうためには、「忘却の恵み」が必要です。

イエス様の十字架を見上げましょう! そこから赦しと癒しが始まります。

あなたが辛かった過去の経験から抜け出る時、過去が癒され、あなたの宝石のような体験が、証しとなり、他の人々の慰めとなり、励ましなるのです。

 

  • 第2は、「結実の恵み」です。

あなたの目を未来に向け、主イエス様に目を向ける時、「結実の実」がもたらされます。

実りは、多くの形でやってくることでしょう。

あなたを通して、ご家族や友人、職場が、兄弟姉妹が、教会が祝福を受けるのです。

あなたが失ったものを主は返してくださるのです。主は、試練に遭ったヨブに対して、子どもと財産を再び与え、失ったものの2倍を返してくださいました。(ヨブ記42:10)

また、主はナオミやルツに対しても、苦さを快い喜びに変えてくださいました。(ルツ記4:17)

 

  • もし、あなたもイエス様を救い主として信じて、心にお迎えし、あなたの人生を主にお任せして、ゆだねるならば、主はあなたの人生を再び実り豊かにしてくださるのです。

そして、一歩、前進するならば、主はあなたの人生と家庭を「結実の恵み」で祝福してくださいます。

ヨセフは苦難の中で、「忘却の恵みによって、人生の大逆転と復活を経験しました。

さらに「結実の恵み」の倍返しの恵みを見出しました。

深い傷と痛みがあったにもかかわらず、彼は最後まで走り続けました。彼の二人の息子の名前は、私たちへの主の真実と祝福の証しです。

主は、あなたにも「忘却の恵み」と「結実の恵み」を備えて下さいます。主は、あなたの人生と家庭に豊かな実りと祝福をもたらしてくださいます。 皆さんアーメンですか?

 

お祈りいたしましょう。「 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)愛する主よ。コロナ禍の未曽有の試練の中で、私たちの短い、長いに関係なく、私たちは様々な出来事により、痛み傷付きます。しかし、イエス様は十字架により、私たちの赦せない罪を身代わりに背負われ、祈られました。主の十字架の下にすべての重荷を降ろします。そしてイエス様を心にお迎えします。私たちひとりひとりに「忘却の恵み」と「結実の恵み」に満たしてください。主イエス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

『ヤベツの祈り(2)~あなたの未来を変える祈り~』第1歴代誌4章9~10節 20201年1月3日 

  • 4:9 ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけていた。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

 

  • 序.あけましておめでとうございます。「あなたは自分の未来を変える事はできると思いますか?」変えられると思う人は手を上げて下さい? では、変えられないと思う人は手を挙げてください?

私たちは、過ぎた過去を変える事はできません。ですから昔の失敗や挫折を引きずり、思い煩う必要はありません。しかし、未来は、まだ始まっていません。現在、家庭や学校、職場で様々困難や試練があるからと言って、未来のことを、取り越し苦労をする必要もありません。

 

実は、クリスチャンの方の中には、「人は自分の未来・運命を変えることはできない。すべては全能の神によって決定されている。すべては御心によって決められた通りに起こっていくだけだ。」という嘘を信じています。これを信じた人は、祈らなくなります。これはサタンの罠です。

祈りには、計り知れない力があります。クリスチャンの最高の武器です。ですから、クリスチャンから祈りを取り去れば、神の力を押しとどめることができる事をサタンは知っているのです。

 

  • 祈りは、「神の力」を体験します。ここにあなたの未来を変える祈りがあります。

元旦礼拝から第1歴代誌4章の「ヤベツの祈り」の御言葉受けています。ヤベツは生まれながら、弱さ・障害者としてのハンデキャップを持って生まれました。しかし、彼は、逆転の人生と変えられて、豊かに用いられ、未来が変えられて、祝福されました。ヤベツの祈りを学びましょう。

  • ヤベツの祈りは、「3つの祈り」からできています。

①私を大いに祝福してください。②私の地境を広げてください。

③私と御手がともにあってわざわいから遠ざけてください。

この3つの祈りを神はすべてかなえられたのでした。彼が祈った祈り(願い)がかなえられたということは、それが神のみこころにかなったことを意味します。

 

  • 1. 私を祝福してください。(第1歴代誌4章10節)

 

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

「祝福」はヘブル語で「バーラク」(בָּרַך )と言います。バーラクは、旧約聖書に327回も使われています。

ヤベツは、主が私たちを祝福してくださるという事を知っていました。ですから、ヤベツは主に「私を大いに祝福してください」と祝福を求める祈りを続けたのです。

ヤベツが、このように大胆に祝福を祈り求めた背景があります。

聖書の主なる神様が「ヘセド」(חֶסֶד)のお方だからです。「へセド」とは、誠実で、決して変わらない不変の愛です。契約を結んでいる者に対して、変わることのない確固とした愛と不変の愛で祝福してくださるという信頼です。確かに、主は契約関係にある者に対して神ご自身の栄光を現わされる方です。ヤベツはヘセドの神を信じて、主の祝福を求め続け、祝福の扉が開かれるようにと叩き続けたのです。

  • 主イエス様もマタイ7:11「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」と弟子たちに教えながら、

マタ7:7 「求め(続け)なさい。そうすれば(必ず)与えられます。探し(続け)なさい。そうすれば(必ず)見出します。たたき(続け)なさい。そうすれば(必ず)開かれます。」と言われました。

皆さんのご家庭で、職場で、学校で、主の恵みの御業を見させて頂きましょう。「私を大いに祝福してください」と祈りましょう。皆さんアーメンですか?

 

  • 2.  私の地境を広げてください (4:10)

 

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

 

ヤベツの第2の祈りは「私の地境を広げてください」です。これは私たちに大きなチャレンジです。

❶ なぜ、地境を広げるのか?

日本の家庭や学校教育など文化の影響で、日本人は、地境を狭めてしまう傾向があります。

「日本人は縮み思考」と言われます。日本人は「盆栽や箱庭」が好きです。小さな箱庭に大自然を再現することが得意です。言い換えると、日本人は、小さく、小さくまとまろうとします。

出る杭は打たれます。ですから、私たちは、自分の可能性に境界線を引く傾向があります。

なぜですか? 安心するためです。しかし、地境は、安心を与える反面、領域が広がるのを止めてしまう相反する働きを持っています。狭い地境の中に安住すると、あなたの未来の可能性を限定してしまうのです。

 

❷ 信仰の地境を広げよう。

今日、箱根の駅伝が行われいます。アスリートは、運動の前に必ずストレッチをします。

このストレッチという言葉には、「才能を伸ばす」という意味があります。家事や育児、勉強や仕事、スポーツなどの新しい分野に挑戦することで、「地境」が広がります。

「地境を広げてください」という祈りは、秘められたあなたの可能性を引き出す祈りです。

「地境を広げてください」と祈り続けると、あなたの地境を広げる考え方や態度が身に付きます。未来に向けてストレッチする生活習慣が身に付くのです。この「ヤベツの祈り」は、行動を引き起こします。地境が広がるように行動し、人生が広がっていくのです。

 

私は腰痛をもっていますので、毎晩休む前にストレッチをしています。このストレッチ運動をすると、普段使っていない筋肉を引き伸ばすので痛みを感じます。同じように、人生のストレッチにも痛みが伴います。新しい賜物を見出し、新しい教会奉仕や、職場での新しい仕事、新しい事にチャレンジは痛みが伴いますが、でもそれは心地よい喜びであるのです。

 

あなたの地境は痛みを伴いながら広がっていきます。失敗を繰り返し、痛い目に遭いながら、地境が広がっていくのです。そこでは努力や痛みを補って余りある喜びを提供してくれます。

新しい年、信仰のビジョンを持って、地境が広げるように、主のビジョンを求めましょう。

そして家族や親族の救いのために地境が広がりますように、家庭や学校、職場、学校での新しい学びや仕事の地境が広がりますように、祈り求めましょう。皆さんアーメンですか?

  • 3.私と御手がともにあってわざわいから遠ざけてください。

 

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

 

第3の祈りは、「御手が私とともにあって、わざわいから遠ざけてください。」です。

  • 例話:『神の力強い御手』という本にアメリカの2001年、9.11のテロの証が掲載されています。その日の朝、スタンレーさんはデボーシヨンで、「主よ、あなたの尊い血で、私と私の愛する

すべての人々を覆ってください」と祈りました。そして、ニューヨークのマンハッタンにあるワー

ルドトレードセンター第2ビル81階のオフィスに出勤し、仕事中にふと窓の外を見ると、旅客機

がまっすぐ自分に向かって飛んでくるのが見えました。驚いて、「主よ、あなたがこの状況をご支

配ください。私にはどうすることもできません!」と祈りました。

とっさに、聖書が置いてある自分の机の下に潜れば守られると直感したのです。

ビルに激突した飛行機は、机のほんの6メートル手前で止まり爆発しました。机に守られ、奇跡的にケガはしませんでしたが、飛行機の破片に埋まっていました。「主よ、ご支配ください。これはあなたにしか解決できません!」と必死に祈ると、超人ハルクのように体中に強大な力がみなぎり、破片を振り落とすことができました。

その時のこと「すベての人の中で自分が一番強い人になったように感じた」と語っています。

しかし、破壊されたオフィスの出口はふさがれていて外に出ることができません。

ひざまずいて主に祈ると、再び体中に力がみなぎり「お前は私と私の主を阻むことはできない」と壁に向かって宜言し、壁をたたき壊して通り抜けることができました。その後も、燃えさかる炎の中をくぐり抜け、一番近いトリニティ教会に走り着きました。「教会に行って神に感謝したかったのです。教会の門に手をかけた途端に、ビルは崩れ落ちました」。

あのような大惨事の中でも主に叫び求めるなら、主の大いなる御手が共にあり、わざわいを遠ざけ、守ってくださるのです。

 

「御手が私とともにあってわざわいから遠ざけてください。」とご一緒に祈りましょう。

 

  • 結論:「主よ、私を大いに祝福し、地境を広げてください!」

 

❶あなたが今年、主に求める「祝福」は何ですか?

 

❷あなたの「地境」が広がる、今年の抱負は何ですか?。

それを毎日告白し、祈りましょう! 主よ感謝します。

 

祈りましょう「愛する主よ。私たちを大いに祝福し、私たちの地境を広げてくださいますように。御手が私たちとともにあってわざわいから遠ざけ、私たちが痛みを覚えることのないようにしてください。」愛する兄弟姉妹の祈りと共に、主イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン。

元旦礼拝『ヤベツの祈り(1)2021年1月1日 第1歴代誌4章9~10節

 

  • 4:9 ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけていた。

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

 

  • 皆さま、新年あけましておめでとうございます。
  • 2021年元旦礼拝をもって共に新しい年をスタート出来る恵みを感謝いたします。 2020年は、新型コロナ感染症によって、試練と苦難が世界の歴史が刻まれました。現在もコロナの闇が全世界を覆い、医療現場は緊迫し、医療関係の皆様のご苦労に感謝したいと思います。このような状況の中で、国家同士は、自国第一で覇権を争い、主導権争いが激化しています。一方、格差社会の中で、弱い者が切り捨てられていく傾向が、新しい年においても懸念されます。

2021年、今年は、どのようになるのでしょうか? わかっていることは、「明けない夜明けがないように」この苦難には終わりがあります。ですから、悲観してはならないことを覚えておきましょう。

そして、私たち神の民は、何よりも、主のみこころに生きることです。そのためには絶えず、神のみことばに聴くことから始まります。

毎週土曜日、早天祈禱会では、皆さんと一緒に「主の祈り」と「ヤベツの祈り」をささげています。

元旦礼拝では、改めて第1歴代誌4章の有名な「ヤベツの祈り」から、今朝と3日の新年礼拝の2回に分けて御言葉を受けましょう。

 

  • 1. ヤベツは、マイナスを乗り越えた人 (4:9)

 

この歴代誌4章のみに登場する「ヤベツ」という人は、どんな人でしょうか?

❶ ヤベツは、私たちと同じ「異邦人」です。

イスラエル12部族の中のユダ族が、第4章です。しかし、ヤベツは、ユダ族の傍流に加えられていますこれは異例な事ではありません。

  • ヨシュア記のエリコの遊女ラハブ(ヨシュア2:8-1)やルツ記のモアブ人の娘ルツも(ルツ4:13-17)ユダ族のダビデ王の先祖に組み込まれていいます。

彼らは、ひたむきに命がけでイスラエルの真の神に望みをおいた人です。

新約聖書でも、イエス様は、イスラエルの中にも、見たことのない純粋な信仰を異邦人の中に見いだしておられます。たとえば、部下の病の癒しのために御言葉をくださいといったローマの百人隊長(ルカ7:9)

それから、イエス様から犬呼ばわりされたツロ、フェニキアのカナン人の母親は、主よ私は犬です。

しかし、小犬でも、主人の食卓から落ちたパンくずを頂きます。私にも憐れんでくださいと主に求め、イエス様から、その信仰が褒められました。(マタイ15:28)

異邦人のヤベツは、その上、父の名も、母の名も、兄弟の名前もありません。それでも、主の憐れみにより、私たちと同じ異邦人であったヤベツは、正式に、神の民に加えられたのです。

私たちも、主の憐れみにより、イエス様を信じる信仰によって、神の民とされました。

 

❷ ヤベツは、「悲しみ・苦しみの人」です。

この「ヤベツ」という名前に、他の人にはない大きな特徴があります。

旧約聖書ヘブル語で、「ヤベツ」は、「ヤベーツ」(יַעְבֵּץ)で、「悲しみ・苦しみ」という意味の名前です。

具体的にそれがどのようなものであったのかは、知る由もありません。決して望んだわけではない、生まれながらのハンディが、彼にはありました。それが、お父さんが亡くなった事なのか、それとも身体的な病気なのか、何かの障害を持って生まれたのか、詳しいことは分かりません。

しかし、ヤベツは、生まれながらのハンディキャップをもって生まれたのです。

それでお母さんは、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、ヤベツという名前を付けたのです。

普通、子どもの誕生は、家族にとって大きな喜びであり、希望です。ですから元気で、明るく力強い名前を親は付けるものです。でも、ヤベツの名前は「悲しみ・苦しみ」という不吉な名前でした。

けれども、その逆境をバネにヤベツは、「私を大いに祝福をしてください」と、率直にこの現実的な祈りをささげました。

 

主は、その祈りを確かに聞かれたと聖書は語っています。ヤベツは自分の逆境、困難を克服して、他の「兄弟たちよりも重んじられた」と聖書は記録しています。 この祈りを通して、ヤベツの人生は、マイナスを乗り越えて、大きな変革を遂げることになりました。

 

  • 2. ヤベツは、逆転の人生の人 (4:10)

 

4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

 

逆転の人生をもたらしたヤベツの信仰とは、どのような信仰でしょうか?

 

❶主を恐れる信仰

 

異邦人であったヤベツは、かつては、周りの異教徒たちと同じように諸々の偶像を拝む人であったと思われます。私も神主の孫ですので、昔はお正月というと、父と一緒に、大みそかの真夜中から元旦にかけて、神社に参拝し、初詣していました。実際は初詣といっても、私の家庭は、昔はクリスチャンホームならぬ、神道ホームでしたので、無理やり父に連れられて、NHKの紅白が終わってから、眠い目をこすりながら、神社につれていかされていたというのが現実でした。

私が、大学1年の時に、この片柳教会で真の神と出会いました。ヤベツも真の神と出会い、主を恐れる人になりました。

箴言 9章10節「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」と聖書は語ります。

「人は、恐れるものを礼拝し、恐れるものの奴隷になる」と言われます。

真の神である主を恐れる人は、主を礼拝する者となりますが、主以外のものを恐れるとその恐れるものの奴隷になります。 世界を覆っている新型コロナに対しても同じことが言えます。正しい感染予防をしっかり取ることはとても大切なことです。しかし、コロナを恐れると、コロナの奴隷となってしまいます。

私たちは、主を恐れ、主を礼拝する者です。それ以外のものや人は恐れないのです。

ヤベツのように、今年も主を恐れ、主を礼拝する者として、歩みましょう。皆さんアーメンですか?

 

❷ 祝福を求める祈り

「祝福」はヘブル語で「バーラク」(בָּרַך )と言います。バーラクは、旧約聖書に327回も使われています。

人が、主に向かっての、バーラク(בָּרַך )は、「賛美する」となります。

反対に、主が、人に向かっての、バーラク(בָּרַך )は、「祝福する」となります。

ヤベツは、主を賛美する時に、主が私たちを祝福してくださるという事を知っていました。

ですから、ヤベツは主に「私を大いに祝福してください」と祝福を求める祈りを続けたのです。

 

さて、私たちは、衣食住のことや自分の趣味や楽しみを熱心に求め、そのために喜んで犠牲を払います。

しかし一方で、主からの恵みに、祝福に期待し、それを積極的に求めているでしょうか?

もしかしたら、私たちは、現状に満足し、目に見えるこの世のことに終始しているのが、私たちの現実とか、知れません。

「主は、私たちに喜んで、恵みを与え、祝福しようしておられるのに、主の祝福を制限するのは、実は、もっぱら私たちであるのです。」 主の祝福を押しとどめている私たちの現実があるのです。

主のあなたへの大きなご計画を、結局は私たちは、自分の限られた思考の中で制限してしまうことになっているのではないでしょうか?

「神の恩恵に限界はありません。しかし、もしあなたが求めなかったのなら、昨日受けるはずだった祝福で受け損なったものがあるのです。」

私たちも、明日から毎朝、目覚めた時に、「主よ、私を大いに祝福してください」と、祈りましょう!

皆さんご一緒に言いましょう。「主よ、私を大いに祝福してください!」

ヤベツは主を賛美する時に、主が私たちを祝福してくださるという事を知っていました。ですから、ヤベツは主に「私を大いに祝福してください」と祈り続けたのです。

 

その時、主は「自分を祝福してくれ」とは、なんて、お前は、自己中なのだ」とは、おっしゃいませんでした。

聖書は、神はヤベツの願いをかなえられたとあります。

ヤベツは、主は私を大いに祝福して下さると信じていたのです。ヤベツは、ハンデキャップを持って生まれ、様々なマイナスを背負っていました。だから、平凡な人にはなりたくないと思いました。 主に祝福を祈り求め、マイナスがプラスとなり、逆転人生となりました。

 

皆さん、私たちも、主に祝福を求めましょう!

私は平凡なクリスチャンにはなりたくない。単なる学生になりたくはない。単なるサラリーマン、ビジネスマンにはなりたくない。単なる主婦にはなりたくない。単なる老人にはなりたくない。

ですから、どうか私を大いに祝福して下さい。どうか私の子どもたちを大いに祝福して下さい。

私の健康を祝福してください。私の家庭を大いに祝福してください。私の学び舎を祝福してください。

私の職場を祝福してください。私の経済を大いに祝福してください。生ぬるい信仰から、信仰の熱いクリスチャンに変えてください。救霊の情熱に溢れさせてください。私を聖霊様に満たして、人々を愛し、家族や友を愛し、仕える者にしてください。主よ、どうか私を大いに祝福して下さい!

主はあなたを大いに祝福を下さるお方です。皆さんアーメンですか?

お祈りいたしましょう「天地万物を創造された全知全能の主よ、主の御名を心から賛美し、この元旦礼拝を感謝いたします。ヤベツは私たちと同じ異邦人で、しかもハンデキャップをもって生まれました。しかし弱さやマイナスを乗り越えて、マイナスがプラスに変えられて、逆転の人生となりました。新年もコロナ禍の中で迎えましたが、この苦難には終わりがあります。主を見上げ、御言葉に聴き、みこころを悟り、私たちも主の祝福を求め、神の家族の一人一人が主の恵みを受け、教会が地域に福音を宣教し、主の体なる教会を建て上げることができますように、主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」

キャンドルサービス『 光と闇のクリスマス 』2020年12月20日  ルカによる福音書2章1~7節   

キャンドルサービス

『 光と闇のクリスマス 』

ルカによる福音書2章1~7節

  • メリークリスマス!皆さま、クリスマスおめでとうございます。今年は、新型コロナ感染症の闇が、全世界を覆ています。そのような中でも、オンラインを通して、また教会で皆様とクリスマスを共にお祝いできること主に感謝します。クリスマスについて2つのことを見たいと思います。

 

  • 1. 主のご降誕は、歴史的な「出来事」です。 (ルカの福音書2:1~2)

 

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。

2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

 

2000年前、世界を支配するローマ帝国の皇帝アウグストゥスとキリニウスというシリアの総督の名前が登場します。これは、救い主イエス・キリスト様の誕生が、歴史的な出来事であるという証明です。

私たちのこの世界は、自然災害や疫病が蔓延し、人種差別や争いが絶えません。そして様々な病によって私たちは苦しんでいます。イエス様は、天の栄光を脱ぎ捨てて、私たちのこの地上に、受肉されて、人となり、家畜小屋の飼い葉桶の中に、ご降誕されました。

そして、人々の苦しみの現実をご覧になり、病人を癒され、悪霊に苦しみ者を解放し、孤独な者の友となり、飢え渇いた者と共に食事をし、交わりを持ち、私たちの罪と咎を、十字架で背負われて、父なる神のさばきを身代わりに受けて、尊い血潮を流されました、そして三日目に死から、復活されました。

もし、クリスマスの出来事が、歴史の真実でなければ、私たちの信仰は、おとぎ話や空想の物語となってしまいます。そして私たちの信仰は空しいものとなってしまいます。しかし、私たちの救いは私たちが、好き勝手に作り出したものではなく、イエス様、ご自身が私たちのために十字架において、勝ち取ってくださったものです。イエス様がこの世界の歴史の中に存在しなければ、私たちの救いは成立しないのです。

ですから、ルカはこの救いの確かさを語るために、イエス様が人類の歴史の中に確かにお生まれになられたこと、実際に存在したことを、ここで明確に語っているのです。

 

  • 2、 主のご降誕は、あなたのための「出来事」です。(ルカの福音書2:6~7)

 

2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、

2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

  •  宗教改革者マルチン・ルターの『クリスマスブック』という本があります。大変、素朴ですが、わかりやすくクリスマスの物語を語っています。ルカの福音書2章7節の「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」という聖書の言葉を紹介しながら、ルターは聴衆に問いかけます。

「皆さんは、救い主を自分の家に泊める機会が与えられながらも、それを拒否した宿屋の主人たちを愚かで、憎むべき人々だと考えるかもしれない。しかし、もし皆さんが同じようにこのベツレヘムの宿屋で忙しく働く人であったとしたら、本当に「自分は彼らとは違う」と言い切れることができるでしょうか?」と、聴衆に語りかけながら、次のように想像力を働かせます。

客で一杯に溢れる宿屋の中で、食事の準備や酔っぱらいの世話をするために懸命になっている彼らは、きっと宿屋の玄関に佇む貧しい若い二人の男女を顧みる余裕は無かったに違いないと…。」と語るのです。 はたして私たちもこの宿屋の主人たちを非難できるでしょうか?

私たちも同じように毎日、毎日、ビジネスや仕事のノルマに追われています。学生は、受験や学校の勉強や部活や塾に追われています。お母さんたちは育児や家事に毎日追われています。

目の前のやるべきことに対応するが精一杯になって働いているのではないでしょうか? そんな私たちがベツレヘムの宿屋の主人たちとどこが違うでしょうか? おそらく、私たちの誰もが「私は違います」とは胸を張って言えない、そんな慌ただしい生活を送っているのではないでしょうか?

私たちも、ベツレヘムの宿屋の主人たちと同じように、このクリスマスの喜びと祝福の主のみ言葉を聞くことができません。私たちの耳は、日々の思い煩いと悩みの言葉によって占領されてしまっていないでしょうか?これが、師走を迎えた、私たちの現実です。しかし、イエス様の救いはこんな私たちの現実に向かって呼びかけられているのです。

 

  • ここに、ルオーの『郊外のキリスト』という絵があります。月夜に照らされてキリストと貧しい親子が立っています。貧しい夫婦にも見えます。その 二人の背丈はキリストの肩にも届いていません。何ともアンバランスです。それだけでなく、この三人の影は後ろにある月の位置からそれているのです。これは、月影はなく、本当は、人生の陰のようです。 イエス様のまなざしが、その陰をじっと見つめています。

誰もが持っている人生の陰をキリストが背負うとしているかのようです。それとは別に、キリストの横には月影らしきものが延びています。 三人が立っている道は、両側の建物より数段も下がっています。郊外の人が住む建物とはかけ離れた感じがします。アンバランスなのですが、それがキリストにとって当然の場所であるかのように感じもします。 人々からも、切り離され、沈められ、隔離されているのです。 帰る家もなく、暖を取り、夕食 にあずかれる食卓もないのです。 寄る辺もなく、これからどこに行った らよいのかも分からなく、ただじっと自分たちの陰を見つめています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1 2) ことばである御子イエス様が肉となって、私たちの間に住んでくださいました。まさにクリスマスの知らせです。人となり降誕された主は、確かに 今、郊外の貧しい親子と共にいて下さいます。影を負い、陰を見つめることができます。それがあたかも、私たちの間に住んでいてくださるしるしであるかのようです。温かい居間で一緒に暖炉に当たってので はなく、月夜の寒い夜に寄る辺のない者と共におられるのです。

コロナの影響で、仕事を失い、お金が底をつき、アパートを出て、ネットカフェ、そして町の路上でのホームレスになった青年が、わずかな持ち物が夜盗まれるのではないかと心配で、まともに寝ることもできないという新聞記事を読みました。幸いNPOの人たちの助けで、温かい食事を頂き、安心して横になって休める、住まいをやっと得ることができたそうです。

  • イエス様は、宿屋にはその場所がなく、「飼葉おけ」(ルカ2:7)が、地上の最初の住まいの場所でした。まるでイエス様は、難民のような、ホームレスのようなものです。それは、本当の居場所を持たない私たちを、父なる神のふところに迎え、神の国に導くためであったのです。
  • クリスマスは、イエス様が私達の中に住むために来られたのです。難民やホームレスの人々だけでなく、この地上で、本当の居場所をもたない、ひとりひとりのために、イエス様は、人間となり、あなたを迎えてくださるのです。 イエス様は、そんな私たちの心の扉を叩いておられます。

誰にも迎えられない人たちと一 緒に寒い夜空の下に立っておられるのです。 クリスマス、それはイエス様が人となり、あなたと共に、一緒にいるためです。人の悲しみや弱さを担い、抱えている傷を共に負ってくださるためです。そしてやがて天国へと導いてくださいます。この救い主イエス様を、あなたの心にお迎えし、主に感謝し、共に喜び、主をほめたたえましょう!

【祈りましょう】 父なる神様。御子イエス様をこの地上に遣わしてくださり、私たちひとりひとりを愛して、十字架によって、罪の赦しと永遠の命の救いの御業に感謝いたします。イエス様は私たちの世界と人生に起こるすべてのことを支配しておられ、それらを用い、神の約束を必ず実現してくださることを感謝します。また、現代のコロナ闇の中に、希望の光が輝いていることを感謝します。イエス様が私たちと共にいてくださる幸いを何よりも喜ぶ者とさせて下さい。主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。