オンライン礼拝 『信仰のテスト ~ヨセフと11人の兄弟たち~ 』
聖書:創世記44章1~34節
- 44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。
44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。
44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。
44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
44:6 彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。
44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。
44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。
44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」
44:10 彼は言った。「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」
44:11 彼らは急いでそれぞれ自分の袋を地面に降ろし、それぞれその袋を開けた。
44:12 彼は年長の者から調べ始めて、年下の者で終えた。すると、その杯はベニヤミンの袋から見つかった。
44:13 彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。
44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にやって来たとき、ヨセフはまだ、そこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。
44:15 ヨセフは彼らに言った。「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」
44:16 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」
父ヤコブの命に従って、子どもたちは、再びエジプトに穀物の買い出しに来ました。2回目です。
第1回目の時は、スパイの疑いをかけられて、兄弟の一人次男シメオンが人質となりました。
しかし、第2回目は、エジプトの総理大臣となっていたヨセフは、兄弟たちの中に弟ベニヤミンがいるのを見て、全員を食事に招待してもてなしました。人質となっていた次男シメオンも返してもらい、皆、胸を撫でおろしました。食料を十分に買い出して、早く年老いたヤコブの待つカナンの家に帰ろうとします。
ヨセフは、兄弟たちをテストしているのです。
今回、第2回目は、兄弟たちが自分に対して犯した罪を本当に悔い改めるかをテストします。そして兄弟たちが、本当に弟ベニヤミンを愛し、父を愛しているのかの最後のテストをすることになります。
具体的には、前回は、次男シメオンを人質として試しましたが、今回は末の弟ベニヤミンを袋に銀の杯を忍び込ませて、言いがかりをしてみるのです。
- 1. ヨセフのテスト (創世記44章16~34節)
44:1 ヨセフは家を管理する者に命じた。「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、 一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。
44:2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」彼はヨセフのことばどおりにした。
44:3 明け方、一行はろばとともに送り出された。
ヨセフは、家の管理者に兄弟たちの袋いっぱいに穀物を満たして、銀を袋に戻しておくように命じます。さらに、ヨセフは、自分の「銀の杯」を末の弟ベニヤミンの袋の中に入れるように命じます。
明け方、兄弟たちは、ロバと一緒にエジプトを後にして出発します。
「やれやれ、食料は充分に買うこともできた。人質にされていたシメオンも取り戻した。おまけにあれほど父ヤコブが心配していた末の弟ベニヤミンをも、ちゃんといっしょだ! 万事OK!」
兄弟11人は、年老いた父ヤコブと家族が待つ、故郷カナンへと向かいます。
ところがドッコイ!もう一つの関門があったのです。頃合を見計らいヨセフは、兄弟たちの後を追わせます。
- 44:4 彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。
44:5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
「待て、待て~。」言葉も荒々しく総理大臣の使者です。 そして、いきなり、泥棒呼ばわりです。
「お前たちは、あのようなエジプトの総理大臣の特別なもてなしを受けながら、なぜ、大切にしている銀の杯を盗みおったのか~?」と迫るのです。
せっかく、天下晴れて故郷を目指していた11人の兄弟たちは、これを聞いて、顔面蒼白です。前回は、スパイ呼ばわりでした。今度は、盗っ人、泥棒呼ばわりなのです。
愛する皆さん、同じように、私たちの心が、どのようなものであるかを主は試されます。
信仰のテストをします。 家族や友が教会の兄弟姉妹が窮地に陥った時、どうなってもよいと思うのか?それとも何とかしたいと思うか? そこで自分の罪に気付かされ、私たちの罪として、家族の一体性もって、あるいは教会の一体性をもって悔い改めることが出来るかどうかを試されます。
- 44:7 彼らは言った。「あなた様は、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなど、あり得ないことです。
44:8 袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなた様のもとへ返しに来たではありませんか。どうして、あなた様のご主人の家から銀や金を盗んだりするでしょう。
44:9 しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」
「濡れ衣です。私たちは、あなた様のご主人様のご恩を仇で返すなどとは、思いもよらないことです。もしも、銀の杯が、私たち11人の誰かの袋の中にありましたら、どうぞ殺してください。そして、私たち一同は、あなた様の奴隷となります。」 体を張って申し開きしました。
ヨセフの使者は、「よくぞ言った。もしも見つかったら、その者は奴隷にするぞ!」と言って、ひとりひとりの荷物を検査することになります。兄弟たちは、不安の中で、一人一人の袋を開けて、見せます。
年齢の順に、まずは長男ルベンの袋から開けます。無い。よかった。次は次男シメオンの番です。
みな緊張します。何しろ、シメオンは人質に囚われていた恨みもあります。ビクビクして、袋を開けられて、無い。一安心。こうして三男レビ、四男ユダ、五男ダンと順々に荷物が改められていくうちに、最後末の弟ベニヤミンの番になります。「これで検査も終わりだ」と一同が腰を上げようとした時です。
「あった。あったぞ、銀の杯だ!」まさか末の弟ベニヤミンの袋の中から銀の杯が、見つかるとは、一同絶句です。東京オリンピックの森会長の女性蔑視発言を聞いた東京都の小池知事は、思わず、絶句したそうですが、11人の兄弟たちも絶句してしまいました。ベニヤミンも、何が何だかわらずに蒼くなるばかりでした。ここからがヨセフの最後のテストの始まりです。
- 2. ユダのとりなし ~身代わりとなる~ (創世記44章16~34節)
兄弟たちは、ベニヤミンを見捨てずに、全員で町に引き返しました。そしてヨセフにひれ伏して、4男のユダが代表して、答えます。
44:16 ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」
ユダは、ベニヤミンの個人の咎ではなく、自分たちの咎としてとらえています。兄弟たちは、単に金の杯の件だけではなく、ヨセフを奴隷として売った罪を自覚していることを示しています。
「神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」 だから、「今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」と言って、全員で責任を取ろうとしています。
こうして兄弟たちは、互いに互いのことを非難するのではなく、神の御前に、ヨセフの前に、自分たちの罪を認め、共に責任を負うことによって、神の民としての一体性を自覚しています。
ダニエル書で、旧約の預言者ダニエルは、同胞のイスラエルの民の不信仰と罪を他人ごとではなく。「私たちは罪を犯しました」と告白し、断食して祈りました。(ダニエル9:3~5)
このように神の御前に、神の民として一体性の自覚は「私たちの罪」という認識から始まります。
時々、「この教会には愛がない、牧師には愛がない、信徒にも愛がない」などと言いう人がおられます。
これは自分を第三者の立場に置いた発言です。私たちは、むしろキリストの体である教会の一員として「私たちの教会、いいえ私たちには愛がない」と主の前に自分の弱さ、罪を自覚する時、私たちは主の前に、キリストの体である教会の一員であるという自覚、教会の一体性が生まれます。私たちは、1つであるという自覚が生まれ、キリストによって赦されている、深い愛によって互いに結び合わせられるのです。
話は戻りますが、ヨセフは、末の弟ベニヤミンだけを残して、奴隷になればよいというのです。
そこで、4男ユダは、必死にヨセフに執り成しをするのです。
- 第1に、父ヤコブの悲しみを伝える。(44:18~32)
44:30 私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、
44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。
ユダは、父ヤコブと末の弟ベニヤミンとの関係を語ります。この弟ベニヤミンを一人見捨てて変えることは出来ません。末の弟ベニヤミンには母を同じくする一人の兄がいました。その兄は死にました。いや、その兄は獣に裂かれて死んだことになっています。父ヤコブは、その兄ヨセフを失ったことで、深く悲しんでいます。もし、ベニヤミンをも失えば、白髪頭の父を、苦しみながら黄泉に降らせることになってしまうのですと、父の苦しみを伝えるのです。
- 第2に、ユダは、身代わりとなる。(創世記44:33~34)
44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」
どうか今、このしもべを、あの子(ベニヤミン)の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。あの子がいっしょでなくて、どうして私は、父のところへ、帰れましょうか。私は、父に起こるわざわいを見たくはありません。なんと、ユダは、弟ベニヤミンの身代わりになりますと申し出たのです。自分の捨て身の作戦です。
44章16節では「私たち一同が奴隷になります。」と言っていましたが、ヨセフの前では、ユダは、「私ひとりが、身代わりになります」と申し出ます。これはユダの兄弟愛、親孝行、そして自己犠牲です。
イエス様は、自己犠牲について語られました。
(ヨハネの福音書15:13) 「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
ユダという人は、かつてはヨセフを奴隷として売る陰謀の首謀者でした。そのユダが、ベニヤミンの罪の責任を身代わりに背負う者へと、主によって造り変えられています。
「責任を負うとは、自己犠牲をもって、決意し、勇気をもって遂行することです。」
主は、たとえ自分勝手な人間であっても、聖霊様は造り変えて下さるお方です。
救い主イエス様は、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で、ご自身の命を犠牲にして、罪の赦しと救いを完成してくださいました。ですから、救い主イエス様は、マタイ1章の系図で明らかなように、このユダの子孫から、誕生されます。 ユダが選ばれたのも、納得できますね。ユダが、他の兄弟すべての身代わりとなり、自分の命を差し出したように、イエス様は、私たちすべての者の受ける、罪のさばきを一身に背負ってくださいました。この創世記44章の物語には、やがて来られる全人類の救い主のひな型となっています。 主イエス様の大きな犠牲の愛に感謝しましょう。
❶主は、苦しみの時、周りの人をご覧にならます。
ヨセフは、銀の杯のことで、末の弟ベニヤミンに対して、兄たちがどんな態度をとるのかをテストしますた。末の弟ベニヤミンが苦境に落ちった時、兄弟全員がベニヤミンと一緒にエジプトに引き返しました。
そして四男のユダは、、自分の命を差し出し、自己犠牲をもって、ベニヤミンを守ったのです。
これはとても大切なことです。
家族の中で、学校や職場の中で、誰から窮地に陥る、受験で失敗する。病気になる。事故に遭う。失敗したり、失業する。そのようなことが起こった時、主の目は、その人でなく、その人の周りの人々に注がれるのです。このことに気づいておられますか? 今日の私たちも同じです。主は苦しみにあった人ではなく、苦しみにあっていない周りの人を調べられます。苦しんでいる人を見て、他人事のように傍観し、自分とは無関係と装うのか? 私たちのこととして、受け止めて、共に苦しみを担うのか?一部分が苦しめば、すべて部分が共に苦しむのです。
(第Ⅰコリント12章26~27)
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
家庭でも、学校や職場でも、教会でも同じです。他人事ではなく、私たちのこととして、自分のことと受け止めて、共に苦しみを担う者とさせていただきましょう。皆さんアーメンですか?
❷主の執り成しの祈りをささげましょう!
44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
ユダは、家族の危機の時、ベニヤミンのために決死の思いで、とりなしをしました。
ユダのとりなしは、私たちの模範です。ユダは、事実を曲げずに、正直に、罪を告白し、とりなしました。
ユダがベニヤミンのために、とりなしたように、私たちのために、命をかけて執り成してくださったお方がおられます。それはイエス様です。ゲッセマネの園で、血の汗を流して、とりなし、私たちの救のために十字架に命を捨ててくださいました。そして聖霊様は、弱い私たちひとりひとりのために、今もとりなしていてくださいます。
ローマ8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
ですから、私たちも、聖霊様の助けを頂いて、愛する家族のために、また友のために、職場の人々のため救いと祝福のために、主にとりなしの祈りをささげましょう。皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の麗しい御名を賛美します。
主の復活の主日にオンライン礼拝を通して、共に主に礼拝をささげる恵みを感謝いたします。
ヤコブの家族と子どもたちのように、私たちの家族や学校、職場、教会でも、様々な出来事、問題が起こります。その時、主はその人の周りの人々をご覧になられます。そして他人事とように傍観し、無関心を装うのか、それとも私たちのこと、自分のこととして受け止めて、自己犠牲をもって、その課題を担い、家族が、教会が1つとされて、危機を乗り越え勝利することができますように、また、ユダのように、愛する家族、友の課題のために、また救いのために、教会のために執り成しの祈りをささげ、主に仕え、主の祝福をを共に受けることができましょうに、お一人お一人を助け導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します。」