2019年5月5日
新約聖書:マルコの福音書10章13~16節
片柳教会・主日礼拝
10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
序。今日は「子どもの日」です。日本の子どもは? 総務省の統計によりますと先月15歳未満の子ども人口は1533万人で前の年より20万人減り38年連続の減少しています。全体の人口の中で12.3%です。先進国の中では、一番子供がいない国です。まさに少子化です。今日は、このどもの日に合わせて。イエス様と子どもから御言葉を受けましょう!
1. 子どもの「祝福を求めてきた人々」(マルコ10:13)
10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
この記事は、マルコだけではなく、マタイ18章、ルカ18章にも記録されています、ですからとても大切な御言葉です。マルコは子どもと書いていますが。ルカでは、幼子(乳飲み子)と書かれています。赤ちゃんから小学生位までの子どもたちであったことが分かります。沢山のお父さんやお母さんがイエス様にさわっていただこうとして、子どもたちを連れてきました。触ってもらうというのは「手を置いて祝福していただくこと」です。生まれた子どもが健康で元気に育ち、幸福になるようにとは、いつの時代にも親の共通の願いです。病人を癒やしたり悪霊を追い出す力を持っているイエス様に祝福してもらって、子どもの健やかな成長するようにと、赤ちゃんも子どもたちも連れて来たのです。
しかし、弟子たちは、子どもと連れてきた大人たちを叱りました。 イエス様は、大人の相手をするだけでも忙しくて大変なので、これ以上煩わせてはならない、と思ったのかも知れません。あるいは、子どもたちが騒いだり、赤ちゃんが泣き叫んでイエス様のお話の様の邪魔になると思ったのかも知れません。
いずれにせよ弟子たちはこの親たちを叱ったのです。ところがイエス様の思いは弟子たちとは反対でした。
2.子どもを「イエス様のところに来させなさい」 (マルコ10:14)
10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
イエス様は、憤って、お怒りになったのです。イエス様は、「子どもたちを私の所に来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」とおっしゃいました。「来させなさい」は、直訳すると「来ることを許しなさい」です。「妨げてはならない」とおっしゃったのです。イエス様は、赤ちゃんも子どもをご自分の所に招いておられます。それを妨げ、子どもたちが来るのを邪魔することは、イエス様に敵対することになるのです。皆さん、私たちも子どもたちを主のもとに連れて行きましょう!アーメンですか?
3.子どものように「神の国を受け入れる」(マルコ10:15)
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
私たちがこの御言葉から学ぶべきことは何でしょうか?イエス様は子どもが好きだった。もちろん大好きでした。子どもに優しかったからという単純な理由ではありません。イエス様は、神の国に入ることができる人は誰かを語っておられるのです。神の国とは、神の支配という意味です。主の支配する「神の国」とです。主を信じ従う神の民の救いが完成する所です。「このような人でなければ神の国に入ることはできない」と言うことです。神の救いにあずかることができるのはどのような人でしょうか?
それは、「子どものように神の国を受け入れる人」です。
これはもちろん、救いは、神の国は、子どもしか入れない、「はい、あなた大人はダメダメ」と入り口で追い返される、そういうことではありません。 では、「子どものように」とはどういうことでしょうか?
「子どものように純真な汚れを知らない人」ということでしょうか? そうではありません。
そもそも、子どもが純真で汚れを知らない、なんてことを聖書は語っていません。アダムの堕落以来、人間は子どもの時から主に背き逆らい、我がままな自己中心です。ですからイエス様がここで「子どものような人」と言っておられるのは、「子どものように罪のない純真な者」ということではありません。
15節の「子どものように神の国を受け入れる人」です。神の国を受け入れる、それはつまり主イエス様によって既に実現している神の恵みのご支配、救いのみ業を信じて受け入れることです。
子どもは、親や教会学校の教師の言葉を素直に信頼して受け入れます。親が言うんだから、先生が言うんだから間違いはない、という素直な信頼です。そのような信頼をもって、イエス様によって神の国が実現しているという福音の言葉を信じて受け入れる者こそが、神の国の恵みにあずかる人です。
例話
脳腫瘍のために、僅か11歳で天に召された雄基君という子のお話です。牧師家庭に生まれた雄基君は、小さい頃からいつも、ご両親からイエス様のことを聞いていました。
3歳の時、お母さんが「イエス様はね、雄ちゃんの罪のために死んで下さったんだよ」と話したら、とっても感動して「イエス様ありがとう!」と言うようになったそうです。4歳の頃には、「僕は、神様のことを伝えるために生きている」と言い出して、2歳の弟に、「僕たち、何のために生きているか知ってる?・・・生きているのは意味があるんだよ。僕たちはイエス様の事をみんなに伝えるために生きてるんだ。」
さらに、「僕は、(大人になったら)トラクトを作って世界中に配る人になる。いろいろな国を旅して世界中の人に配るんだ。僕は、世界中の人がイエス様を信じて天国へ行って欲しいんだ。」と言うようになりました。そんな雄基君は、小学生になったら洗礼を受けたいと言い始めたそうです。でも、まだ早いと思ったお父さんは、「水に潜れるようになったらね」と受け流したそうですが、なんとお風呂場で一生懸命に水に潜る練習をし始めたっそうです。そしてついに水に潜れるようになって、洗礼を受けることになったのです。
そんな時、雄基君に脳腫瘍が見つかったんです。そして、手術はしたものの、「あと三年の命です」と言われました。しかも、手術の後に非常に苦しんで、ただただ唸って横になってるばかりだったそうです。
そんな雄基君のために、お父さんがベッドのそばで讃美を歌ってあげると、突然雄基君が口を開いてこう言ったそうです。「イエス様は、僕のために死んで下さったんだよね。だったら僕、がんばる」と…。
けれども、病気はどんどん進み、やがて、耳が聞こえなくなり、立つことも、歩くことも出来なくなりました。それなのに、雄基君はいつも、神様にこうお祈りしていたそうです。「神様、今日も僕の体を守って下さって、ありがとうございます。」 もし、大人だったら、果たしてこんなふうに言えるでしょうか?こんなふうに、素直にイエス様のことを信じて行けただろうかと思います。まさにこれは、「子どもならではの尊い信仰です。」「子どものように神の国を受け入れる」というのは、こういうことを言うんだなあと思うんです。
結論: 「あなたも子どものように信じる者となる」
❶ 親の務めを果たす
10:14「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」
私たちは赤ん坊が生まれる時、必ず病院の産科に連れて行きます。また熱があり病気の時は、病院に連れて行きますね。赤ちゃんが自分から、「お母さん、病院に行こう」と言い出すことはありません。連れて行くのは親の義務です。無理にでも、たとえ嫌がってでも連れて行きます。
ところが、もっと大事な魂の問題になると、『信仰は自由です』『本人の自覚に任せます』と放任してはいないでしょうか?今日の場面でも子どもたちが祝福を受けられたのは、親や家族の願いと祈りがそこにあったのです。そしてイエス様が招いて下さったからです。子どもも大人も、救い主イエス様が絶対に必要なのです。イエス様の身代わりの十字架がなければ、子どもたちも私たち大人も滅びるのです。イエス様の御手に子どもたちを触れていただく、いつも礼拝で聖霊様の臨在、聖霊様の祝福の油注ぎを受ける。主の愛に触れさせる。それが私たち、親の務め、大人の務めはここにあります。子どもたちを主の御もとに連れて行きましょう。親の務めを果たしましょう!主の祝福に家族で預かりましょう! 皆さんアーメンですか?
❷子どものように信じる (第1コリント1:18・25)
1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
昔、一人のクリスチャン教師が召される前に『喜びと希望と感謝』という本を書きました。「私は、人生の晩年を迎えた今、最も訴えたいことは何だろうか?それは私のために罪の身代わりに十字架で死を死んで下さったイエス様を心より信じて、キリストの中に本当の自分を見い出すことです。童心(子どもの心)に立ち帰って愛の愚かさに徹する人生を持ちたい。」イエス様を信じて生きることは、神の愛の愚かさの中に生きることだと語るのです。私たちは乳飲み子から、子ども、やがて大人になります。乳飲み子だった時は、親の腕に抱かれて、親に頼り切って生きていました。少しずつ成長して、大人になるにつれて、自立して自分で生きるようになります。自分のことは自分で考え、自分で行動し、自分の責任で何でもするようになります。愚かさから卒業し、知恵がつくようになります。そうなると、もはや親の腕に抱かれない。他人の腕にも抱かれない。もしかすると、主の腕にも抱かれないということになってしまうかもしれない。しかし、愛の愚かさに生きることは、逆方向です。もう一度、親の腕に抱かれるように、主の御腕に抱かれるようになることです。
自分の知恵では生きない。主の御腕の中に飛び込み。主の御腕に抱かれて、神の愛の中に生きる。
これがイエス様が求めておられる、「子どものようになることです」
キリストの腕の中に抱かれた時、あなたが見出すのは、十字架にお架かりになった主の御腕に抱かれている姿です。主の御腕は祝福の御手です。その御腕は、あなたの罪を赦す御腕です。ご自分が傷んでまで、あなたを愛してくださる御腕です。この圧倒的な愛の中で、私たちは乳飲み子になることができます。
もはや、私たちの何の知恵も役に立ちません。自分の知恵の賢さではなく、神の愛の愚かさに生きるのです。すでに大人になっていたとしても、子どものようになる。いいえ、なることができるのです。
このように主を信頼し生きる者こそ、神の前に子どものようになる生き方なのです。今週も、あなたも子どものように素直に主の御言葉を信じ、主を信頼して、従いましょう!皆さんアーメンですか?
お祈りいたします!「天のお父様、子どもの日の合同礼拝を感謝します。子どもを主の御もとにいつも連れて行くことができますように。礼拝や家庭礼拝の子どもたちと主に預かり、主の祝福を受けることが出来ますように。私たちは不信仰で、疑いやすく、自分の力と知恵で歩もうとする私たちの賢さを砕いてください。そして子どものように、神の国を受け入れいる、素直な信仰、神の愛の愚かなさに徹し、十字架の愛の御腕の中にゆだね、主に信頼する子どものような素直な信仰を持って主に従う者とならせてください。
主イエス・キリストの御名よってお祈りいたします。アーメン」