『主はアブラハムと契約を結ばれた』2019年7月7日
旧約聖書:創世記15章7~17節
今日は七夕ですね。星空を見上げたアブラハムは、子ども与えられず、将来への不安と恐れの中にいました。現代でも、お子さんが生まれない不妊で悩み苦しんでおられる夫婦がたくさんおられます。ましてや4千年前は、一族の命運が懸っていました。そんなアブラハムに、主は、やがて、あの星のように、あなたの身から出る子孫は多くなると告げられました。アブラハムは、主の御言葉を信じました。現実の自分の状態は全く不可能、そんな全然考えられない状態でした。けれども、自分の置かれた現実から神の御言葉の確かさを求めるのはなく、神の御言葉に立って、現実を受け入れました。主の約束の御言葉を信じて、天を見上げて「アーメン!」と応答し、主はその信仰を義と認められました。その保障ととして、主はアブラハムと契約を結ばれました。契約の祝福の御言葉を受けましょう。
1.アブラアムへの「主の自己紹介」 ( 創世記 15:7)
15:7 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した【主】である。」
主は、アブラハムに対して、「わたしは、、、主である」と自己紹介しています。
「私は、あなたをウルから導き出した主」ですとおっしゃっています。アブラハムは、主の召しによって、偶像の町ウルから導き出されて、主の恵みと憐れみ、そして忍耐の中、導かれてきた過去の日々を思い出したことでしょう!主はいつもアブラハムと共におられ、常にアブラハムを支え導かれたお方です。
このように私たちの主は、私たち個人の生涯の中に、また家族の営みの中に、教会の歩みの中に、国々の歴史の中に生きて働いておられるお方です。私たちが個人の生涯の歩みを振り返って、顧みる時、そこに確かに働かれた主の御業を見ることができるのではないでしょうか?
また、私たちお互いの家族の歴史を振り返る時に、そこに主の御業をおぼえることができるのではないでしょうか。教会の歴史、私たちの教会も2022年に創立50周年を迎えます。この50年の歴史の中に確かな主の御業を見ることができます。全て主が働かれた主の御業を発見して、主の御名を崇めることができます。主が私たちひとりひとりになしてくださった数々の御業を覚え、主の御名を心から賛美しましょう!皆さんアーメンですか?
神の御言葉は、いつも具体的です。あなたに子孫を与える。その子孫が住むべき土地も与えるという約束を与えられました。まずは、信じて踏み出す。その時に、確かに踏み出す場所がそこにあるのです。そして次に信じて踏み出す。そして道が具体的に開かれていくのです。これが信仰の歩みです。私たちも信じで、一歩踏み出しましょう。信じて踏み出すならば、道は開かれるのです。皆さんアーメンですか?
2.アブラハムと「主は契約を結ぶ」 (創世記15:8~10)
15:8 アブラムは言った。「【神】、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」
15:9 すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。
アブラハムは、この時点では、まだ1坪の土地さえも、手に入れていなかったのです。そこでアブラハムは、「主よ、私がそれを所有することが、何によってわかるのでしょうか?」と主の約束の確証を求めました。それで、主は、アブラハムと具体的に契約を結ばれたのです。
当時、古代オリエント社会の契約は、このような契約を結びました。契約という概念は日本人には弱い所です。契約は、動物を真二つに切り裂き、両側に向かい合わせに置いて、その間を契約した者同士が歩いて、契約が成立します。もし、契約を破ったならば、この2つに裂かれた動物のように自分たちもなっても構わないと約束したのです。 現代の私たちにとっては不思議な感じがしますね。
でも日本でも子どもの童歌にもありますね。「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます♪指きった♪」しかし、当時、厳粛な固い約束・契約はこうして結ばれました。
(エレミヤ書34章18節)「 わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする。」
もし、約束を破ったら自分は二つに切り裂かれた動物のようになってもよい、呪いを受けてもよいという意味でした。
創世記 15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
煙の立つかまどと燃えているたいまつとは、神のご臨在の象徴です。出エジプト記で、モーセに導かれ荒野を40年旅した時、主は昼は雲の柱、夜は火の柱の臨在をもってイスラエルの民を守り、導かれました。その煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、その切り裂かれたものの間を通り過ぎました。切り裂かれた動物の間を通ったのは、主おひとりでした。不思議です。
本当なら契約の当事者であるアブラハムも、通らなければならないのに、主おひとりだけが通りました。これは主の一方的な契約です。主が約束を破るとは考えられません。必ずや約束違反、つまり罪を犯すのは私たち人間です。主は私たち人間のために、主ご自身が裂かれた動物のように呪われてもよいと、へりくだり、契約を結ばれたのです。これは一方的な神の恵みの契約です。1から10まですべては主が成されるのです。どこまでも主の一方的な恵みの契約です。私たち人間の側には、何も行いは求められていません。私たちは、どこまでも、ただ信じて、受けるだけです。アブラハムも私たちも、この一方的な恵みによって救われ、神の愛に守られています。これは主イエス様の十字架の出来事を示しています。
父なる神様は、十字架の御子イエス様の体を、引き裂かれた。あの十字架において私たちの救いのために契約を成就してくださいました。私たちに求められているのは、ただ信じるだけです。アブラハムがただ信じて、義と認められたように、私も、あなたもただ、イエス様の十字架の死と復活により、実現した罪の赦しと永遠の命の救いをただ信じ、受け入れるだけです。あなたのための救いの契約は、2000年前のイエス様の十字架の出来事です。それをただ受けるだけです。素直に信じ、受け入れるだけです。
愛する皆さん、この神の契約、イエス様の十字架によってあなたの罪は赦され、永遠の命が与えられました。皆さん、アーメンですか?
3.アブラハムの 「魂の暗黒と救い」 (創世記15:12)
15:12 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。
それから、アブラハムは、契約の直後、大きな恐ろしい暗闇を経験します。やがてイスラエルの民は、エジプトで400年間奴隷となり、苦しみ、やがて4代目にモーセに導かれ、カナンの地に帰ることをあらかじめ幻で啓示されました。
私たちも、主の救いの恵みを受けようとする時、信仰の道を歩もうとする時には、大なり小なり、必ずこのような経験をします。私たちの暗闇の恐怖って何でしょうか? それは罪の経験です。孤独の経験です。罪の経験は、私たちを孤独にします。神の御言葉と聖霊様に、あなたが触れ始めると、今まで、気づくこともなかった自分の罪があらわされて参ります。絶対的な聖い聖なる主の御前に、ひとり立たされて、自分の罪深さを知らされて、自分の魂の闇・暗黒、痛み、惨めさ、弱さ、悲しみときよめを経験します。あなたと神との間には、誰も、立ち入ることは出来ません。親だって、夫だって、妻も、子どもも、兄弟も、恋人も、誰一人立ち入ることはできません。主と私一人だけです
聖なる神の御前には、全くひとりです。これは恐ろしい霊的な暗黒の経験です。
ローマ人への手紙7章
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
この暗黒の体験を通して、私たちはハッキリと神の救いの恵みが示されます。主があなたに与えられた新しい契約は、動物によるのではなく、神の独り子イエス様が十字架の上で、あなたの罪を全部背負われて、あなたの罪の身代わりにご自身の体を裂かれ、一方的に結んでくださった救いの契約です。
アブラハムの契約は、イエス様の十字架の救いの契約のひな型です。
あなたが信仰を持ってイエス様を信じ、受け入れる時、あなたは、罪から完全に救われ、新しい永遠の命が与えられて、神の御国・天国を受け継ぐのです。天下にイエスさまの御名以外に救いはありません。心を開いてイエス様をお迎えし、イエス様を信じましょう!皆さんアーメンですか?
結論:「イエス様の救いの恵みに留まり、教会生活を守る」
(創世記15:11) 15:11 猛禽(もうきん)がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。
主がアブラハムと契約を結ばれた直後、猛禽が、契約の肉を奪い取に、降りて来ました。
そこでアブラハムは、これを追い払いました。私たち人間の側がすべきことが書かれています。
主の素晴らしい救いの契約、恵みの救いを悪魔に奪われないように守ることです。この荒々しい猛禽の鳥は、悪魔を表しています。主の一方的な恵みを無効にしようとする悪魔の働きです。私たち人間は、ただ信じて、この契約を守る。それに尽きます。悪魔は、様々な惑わしの言葉をもって、あなたの信仰を邪魔して、惑わしと誘惑をしてきます。悪魔は、あの手この手を使って、あなたを聖書を読むこと、祈ること、礼拝、教会生活をやめさせようとやってきます。日曜日、疲れていて眠いのに、わざわざ教会に行かなくても、家で聖書を読み、祈れば十分、みんなショッピングに行って楽しんでいる、あなたも遊んで楽しめば、お友達は塾や部活で頑張っている、教会なんかに行っていて受験大丈夫? 悪魔は、あなたをイエス様から離れさせようとします。アブラハムが、これを一日中追い払ったように、私たちも、どんな悪魔の手立てに対しても、どんな誘惑や惑わしにも、ただただ御言葉を信じ、主を信じ、教会生活を守るのです。
「礼拝を守る」といいますが。本当は、逆です。「礼拝によって、私たちが守られているのです」
先週、教会の墓地の補修工事の見積もりで、茨城に上野美装会社・社長:上野修三兄が教会に来られました。大変良心的な仕事と誠実な方でした。兄弟団の教会のメンバードそうです。お母様がクリスチャンで幼い日より教会生活を送っていたそうですが、社会に出て、塗装の職人の世界で、好き勝手に生活し、教会なんて行かなくても大丈夫とかかを食って離れてしまい、やがてお酒におぼれ、離婚し、家庭が崩壊したそうです。打ち砕かれていましたので、そんな時に牧師となっていた兄さんの教会の工事をお願いされて、「そうだ教会に帰ろう!」と素直に、立ち返ったそうです。それ以降、すべて信仰に立ち、教会生活を中心に、仕事も、人生も、再建して、再婚して結婚してお子様も与えられ、会社は日曜はお休みとはっきりと打ち出してとても祝福されているそうです。自分の教会の礼拝を何よりも大切にして、お年寄りの送迎の奉仕をしているとおしゃっていました。
Ⅰテモテ3:15 「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」
使徒パウロは、「教会は、真理の柱と土台である」と宣言しました。あなたの人生を堅固で立派なに建て上げる秘訣は、教会生活です。教会生活が、あなたの人生という家の柱となり土台となるからです。
イエス様の救いの恵みに留まり、教会生活を守りましょう!皆さん、アーメンですか?
お祈りいたしましょう!「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、御名を心から賛美します。私たちは、自分の真の姿を知らず、主の栄光を汚し、主に罪を犯して、主を悲しませる、自己中心で、身勝手で、彷徨う、弱い者です。そんな私たちのために、アブラハムと契約を結ばれたように、御子イエス様の十字架により、一方的に愛してくださり、主の救いの恵みに招き入れられたことに感謝します。私たちの魂の暗闇の部分に聖霊様の光を射して頂き、主と真正面から向き合い、気づきが与えられて、自分の罪を悔い改め、罪の赦しと癒しを受け、魂の慰めを得させてください。この素晴らしい主の救いの恵みを、教会生活を守ることで、主の祝福を家族や友にもたらす者とならせてください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」
『アブラハムは主を信じた ~恐れと不安の中で御言葉に立つ~』 2019年6月30日
旧約聖書: 創世記15章1~6節
片柳教会・主日礼拝
先週の「いのちの電話の理事会」での議論は、10代から30代までの若者死亡の第一は、自殺です。苦しむ若者にどのように寄り添うことができるかという議論でした。若者だけでなくお年寄りも老後2000万円問題にみられるように、将来への不安があります。私たちは、恐れ不安を感じる者です。今日のアブラハムも恐れていました。主は恐れる私たちにどうのようにかかわってくださるのでしょうか?
1. アブラハムは、「 恐れていた 」 (創世記15:1)
15:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
「これらの出来事の後」とは、先週の14章の出来事です。エラムの王ケドルラオメル王の大軍に攻められて、戦争に巻き込まれ、奴隷となり連れ去られた甥のロトとその家族と財産を奪還した戦いの後です。
愛する者を守るために、アブラハムは勇士となって真夜中の奇襲攻撃で見事に勝利し、凱旋しました。
勝利の栄光を主にお返しし、10分の1の捧げものを主にささげて、主を礼拝しました。
この命がけの戦いの後、アブラハムの心は恐れに捕らわれました。 人間には、外の見える所と、心の中の見えない両方があります。 外に見える所と、見えない所では、全然あべこべな場合もあります。
アブラハムの場合、わずか318人の僕たちと地元の族長たちの協力だけで、敵の4カ国連合の大軍と命がけの戦いを戦い、奪われた財産を奪い返したのに、しかも何一つ彼は、受け取ろうとしませんでした。
実に潔く、すがすがしいアブラハムです。このような勝利の後は、人間の心の中には、様々な思いが沸き起こるものです。 あのエラムの大軍は引き上げていったが、もう一度復讐のためにケドルラオメル王は襲ってくるのではないか?リベンジに対する恐れがあったことは違いありません。あるいは、勝利したアブラハムと友好関係を結ぼうと近寄ってきた邪悪なソドムの王様の申し出を断ったので、そのソドムの王が新たな敵となることを恐れたのかも知れません。糸一本、靴のひも1本さえも受け取らないと啖呵を切ったが、やはり、少しは受けておくべきだったかも知れない、という後悔をしやすいものです。
自分の罪を告白したり、信仰的な決断をした後で、これからどうなるんだろう、何か変なことが起こらないだろうかという様々な疑念が起こるものです。そして自分の現実に目を向けた時、アブラハムには子どもがいません。妻のサライは若い頃から不妊でした。アブラハム夫婦はもはや老境に入っています。
自分たちの跡を継ぐ者がありません。自分たちの子どもがいないということは大きな不安であり重荷でした。今から4千年前は、後継ぎがいないということは致命的な事でした。主の召命に従い、カナンの地に着いて、早10年が過ぎようとしています。主は「この地をあなたと子孫に与える」と約束されました。しかし受け継ぐ子どもはいないんです。主の約束に対する疑念がふつふつと沸き起こるのは当然ではないでしょうか。これら事が、アブラハム夫妻の将来に対して、言い知れぬ不安や恐れとなったのではないでしょうか? いくら信仰の人アブラハムでも、その心は鉄のように固いものではなかったことが分かります。
まして、愛する皆さん、私たちの心が、不安や恐れに陥らないということがあるでしょうか? 人の目を恐れ、世間を恐れる。自分や家族・子どもの将来に不安を抱き、近づいてくる自分の死を恐れる。私たちも、無我夢中で働き、一生懸命に生きている間は忘れているものかもしれません。しかし、ふと立ち止まり、誰しも自分の心の真相、心の闇に愕然といたします。アブラハムは恐れたのです。
●2. アブラハムに 「主が臨んだ」 (創世記15:1~5)
15:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
15:2 アブラムは言った。「【神】、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
15:4 すると見よ、【主】のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
恐れるアブラハムに主が臨んだのです。本当に幸いなことは、私たちの不安や恐れを、私たち以上にご存知の主がおられることです。 主はアブラハムに親しく近づき、優しく語りかけてくださいました。
「恐れるな。私はあなたの盾である。」この御言葉は恐れの中にいるすべての人たちへの温かい、慰めの御言葉です。
●恐れなくても良い理由が2つ語られています。1つは「わたしがあなたの盾である」
2つは、「あなたの子があなたの跡を継ぐことになる。」ということです。
1つ目の「盾」です。荒野の人生を旅するアブラハム、荒野には城壁もありません。門もありません。
何もない荒野の旅の中で、天地万物を創造した神があなたの盾となり、あなたを囲い、敵の弓や槍、鉄砲からも守られるのです。敵の陰謀や誘惑、攻撃からも守ってくれます。 さらに「あなたの受ける報いは非常に大きい。」心励まされたアブラハムは、大きな不安を率直に話します。 「主よ。あなたが約束された子どもは、まだ与えられていません。それなのに私に報いがあるという。それは私の家の奴隷が跡取りになるということですか?」当時は、忠実な奴隷が養子となって、家の跡を継いだからです。
すると再び、主の言葉が再び臨みました。これが恐れなくてもよい2つ目の理由です。
15:4 すると見よ、【主】のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
なんと力強い主の御言葉でしょうか?主の圧倒的な迫りです。アブラハムに希望を与え、信仰のチャレンジをします。アブラハムを再びに立ち上がらせるのは、いつも主の御言葉です。主は、ハッキリと宣言します。たとえあなたの現実がどうであれ、あなたの身から出る者、あなた自身から生まれる者が後継ぎとなる。 私たちは、どうしても主の御言葉を、自分の常識、自分の経験、現実の可能性の上に立って受け取ろうとします。アブラハムは人一倍常識の人であり、理性の人でした。しかし、アブラハムはここで自分の考え・常識:経験に従うのか?反対に、今は、何も見えていない。それでも、聖書の神の御言葉の約束に立つのか?そこにアブラハムの信仰の危機があったのです。 あなたはいかがでしょうか?
主の御言葉を、どうしても常識でこれを取ろうとしたり、自分の経験や可能性に立って使い分けていませんか?信仰とビジネス、信仰と家庭生活、信仰とお金、信仰を方便で受け取ってはいませんか?
だから、神の言葉が神の言葉ではなく、人の言葉になってしまい、力にならないのです。主は続けて語られます。
●15:5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
これは、いわゆる主の実物教育です。満天の光輝く星。誰がこれを数えることが出来るでしょうか?
神の創造された無限の星を有限な人間が数えることなどできません。それなのに、ちっぽけな自分の考えや経験で、神の御言葉を判断しようとする? 主の約束を疑う? 「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい!」と言って、アブラハムにその誤りを教えられたのです。
有限な人間が、無限で永遠なる神のみこころを、どうして理解できるでしょうか?主の御業は人の思いをはるかに超えています。主は満天の星を通して、アブラハムが自分の限られた経験や常識で、判断する愚かさを、徹底的に砕かれたのです。「あなたの子孫はこのようになる」 あなたの人生はこのように祝福されるのだ。神の約束は必ずなるからです。
(証)私は福島県の神主の孫に生まれました。大学1年の時、この教会で求道して、家族の反対と迫害の中でイエス様を信じました。当時は、とうてい家族も救われるとは信じられませんでした。しかし、使徒の働き16章31節「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」主の御言葉は約束しています。だから信じて祈り求めました。疑っては悔い改めて、信じました。主の約束の時がついにきました。21年後に母がイエス様を信じ、洗礼を受け、天に召されました。そして、33年後、父がイエス様を信じ、洗礼を受け、天に召されました。
愛する兄弟姉妹、私たちの可能性は、私たちにではなく、ただ主にあるのです。皆さんアーメンですか?
3. アブラハムは 「主を信じた」 (創世記15:6)
15:6 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
アブラハムは、そのまま主を信じました。主はそれを義とされました。
使徒パウロは、新約聖書ローマ人への手紙で、この出来事を引用しています。 (ローマ4章23~25節)
4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
主はアブラハムの信仰を義と認められました。あなたもこの信仰で救われるのです。信仰とは、信じることです。あなたがどうであれ、神の側で全部成し遂げてくださった。イエス様が十字架の上で、あなたの罪の身代わりとなって罪の赦しと救いを成し遂げて下さった。これを素直に信じ、受け取るたけで十分なのです。なぜ、他の人と信仰を比べるのでしょうか?あなたも、私もただ信じて救われるのです。アブラハムは信じた。主は彼を義(良しと)認められたのです。これが神の恵みです。どこまで行っても、私たちが救われるのは、この信仰による以外にはないのです。これが宗教改革でルターが主張した「信仰義認」です。人の救われるのは、ただ主の恵みです。ただ信仰だけです。不可能な現実の中ただ信じ受け取る。これがアブラハムの信仰。パウロの信仰。そして私たちの信仰です。アブラハムは主を信じたのです。
私たちの素直にイエス様を信じ、義と認められました。皆さん、アーメンですか?
●結 論: 神の御言葉に立って、あなたの現実を受け入れよう!
15:6 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
この6節は、アブラハムの生涯の中で、おそらく最も大切な1節です。彼は神の約束をそのまんま信じた。そして、主はそれを彼の義と認められたのです。聖書を原語の旧約ヘブル語や新約ギリシャ語で調べて学んでいて時々感動して心が震える時があります。今回もそうでした。
「彼は主を信じた」の「信じた」という動詞の言葉は、実は「アーメン」という言葉です。
「アブラハムよ、天を見上げてご覧なさい。夜空の星のように、あなたの子孫を増やし、あなたを祝福しよう」と言われた時に、アブラハムは素直に、天を見上げて主に向かって「アーメン!」と答えたんですよ!
「アーメン」というのは、ヘブル語も、ギリシャ語も、英語も、中国語も、韓国語も、日本語も世界中、みんなアーメンです。「アーメン」とは「真実です、信頼します、その通りに受けます」「信じる」という意味です。
アブラハムが、「信仰の父」と呼ばれ、イスラエルの祝福の基となったのは、この信仰のゆえです。
現実に生きている私たちは、現実を無視することはできません。しかし、私たちは現実の世界に生きているからといって、そこに埋没してしまう必要はありません。
私たちの現実を、現実たらしめている主なる真の神様を私たちは信じているのです。
現実に生きる私たちひとりひとりのために、父なる神様は、ひとりごイエス様を賜って、愛してくださったのです。この主を信じるのです。それゆえに、私たちも、アブラハムのように望み得ない時にもなお望みを持って、生きることがゆるされています。
(例話)「ひとりの女性は、愛する夫を急に失い悲しみの中で、教会に導かれました。礼拝で「主はあなたを愛しておられます。」というメッセージを聞きました。「じゃあ、どうして主は夫を死からまもってくださらなかったのだろうか?」という疑問に、メッセージを信じることができませんでした。牧師や兄弟姉妹に質問しても納得はできませんでした。しかし、その後も、熱心に求道して、ついに主イエス様を信じることができました。その時に、彼女ははじめて、夫の急死という悲痛な出来事も、愛なる神の御手のうちに受け入れることができるようになりました。
●「信仰」「信じるとは」、現実から神の御言葉の確かさを求めていくことではありません。神の御言葉に立って、あなたの現実を受け入れていくことです。たとえ、現実はいかようであれ、全知全能の神の愛のゆえにあなたの現実を受け取ることです。それが信仰です。
●(ヘブル11:1)「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
あなたも神の御言葉に立ち、アブラハムのように、約束された主の祝福にあずかることができるのです。私たちの信仰の生涯も、アブラハムのように、いつも天を見上げ、アーメンと言って、主の約束を信じ受け、主の祝福にあずかりましょう!皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう「愛する主よ、感謝いたします。この地上の歩みでは、色々な出来事があります。
不安があり、恐れがあります。しかし、現実から神の御言葉の確かさを求めていくのではなく、神の御言葉に立って、現実を受け入れていくことができますように。たとえ、現実はいかようであれ、全知全能の神の愛のゆえに私たちの現実を受けていく、信仰に立たせてください。アブラハムは恐れの中で、天を見上げて、「アーメン」主よ信じますと御言葉に応答しました、私たちも、喜びの日も、悲しみの日も、試練の日も、涙の中で、天を見上げ、永遠の主を見上げ、「アーメン」と叫び、告白することが出来ますように導いて下さい。主よ、どうか、御前にあるおひとりお一人を祝福してください。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します
6月23日 『 糸一本さえ、受け取らない ~勇士アブラハムの信仰の勝利~』
父の日礼拝 『 主に望みをおく者 ~父アブラハムの信仰~』 2019年6月16日
旧約聖書:創世記13章5~18節
片柳教会・主日礼拝
13:5 アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。
13:7 そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。
13:13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、【主】に対して甚だしく罪深い者たちであった。
13:14 ロトがアブラムから別れて行った後、【主】はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
13:15私はあなたが見渡しているこの地をすべて、あなたにそしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。
序、飢饉という危機の中で、安易に約束の地を離れ、エジプトに緊急に避難し、失敗したアブラハムは、悔い改めて、信仰の再出発をしました。ところが神との交わりを回復して、落ち着ついたアブラハムに今度は、人との付き合いで悩む事になります。人生はややこしいものです。甥のロトとの悶着でした。家畜の牧草や水を巡るいさかいが起こりました。豊かになることは主の恵み、祝福ですが、豊かになると重荷を背負うことにもなります。貧しい時は、助け合い励まし合って、幸せなのが、豊かになると争いの火種となります。
箴 17:1「乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」の通りです。
アブラハムは、異教社会の中で、神の民が争うことは証にならないと考えて、平和を愛するアブラハムは、争わずに、ロトと別れることを提案します。甥のロトはおじさんのアブラハムに付いて来た居候のような者です。おじさんのアブラハムが選び決めることができましたが、ロトに選ぶ自由を与えます。これは父のような親心でした。ロトが独り立ちする時が来た。独立のために選ぶ自由をロトに与えました。
1. ロトの選択 (創世記13:8~11)
13:8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
❶ 目を上げて、「見える所に従って選択した」
叔父さんのアブラハムから言われ、ロトは目を上げて見ると、ヨルダンの低地は、まるで主の園、エデンの園ように良く茂り、作物や牧草も豊かに見えました。ロトは、目に見える所に従って選び取ったのです。
ロトの信仰は、アブラハムに依存した信仰でした。ただアブラハムに付いていくだけでした。だからこそ、アブラハムを離れて、信仰の自立が求められたのです。アブラハムとロトの信仰の違いは、直接信仰か間接的信仰かの違いでした。アブラハムは主から直接受けました。しかしロトは主の生きた恵みの中に直接自分の身を置いていません。ロトの信仰は、観念的で、頭だけの信仰です。ここにロトの弱さがあります。
いざという時に信仰が役に立たないのです。 CSのお友達やJYの中高生のみんなも、自分のたこととして考えてください! あなたの信仰は、アブラハムのような直接の信仰ですか? それともロトのように親や兄弟について付いて来た、間接的な信仰ですか? はじめは、親に従い、兄弟に従い、友だちに従い間接的な信仰でも良いのです。 でも、子どもがやがて親から自立して、一人立ちするように、あなたの信仰も、間接的な信仰から神直接の信仰に成長しましょう。 自分で聖書のみ言葉を読み、自分の言葉で、心から本音で主に祈るのです。罪を悔い改めて、主の赦しの恵みを受けましょう! 聖霊様の慰めや平安、喜びの恵みを受けましょう! 皆さんアーメンですか?
❷ 目を見上げて、「肉の欲に従って選択した」
10節にロトは「目を上げて」という言葉があります。14節ではアブラハムも「目を上げて」見たとあります。
2人の目の開け方が全然違うのです。どのように違うのでしょうか?ロトは、欲をもって目を上げました。
そこで見たものは何ですか?この世の豊かさです。アブラハムの場合は、主のみ言葉の呼びかけに従い、信仰をもって目を上げています。だからアブラハムが見たものは何ですか? 「主」です。同じ目を見上げるにしても全く違うのです。欲で目を上げる時には、この世の豊かさが目に付きます。それで、それが欲しくなり、目先のことだけを求めるようになります。
(Ⅰヨハネ2章16節)「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」
と言われていますが、まさにロトの場合は、そのような目の上げ方でした。この世の豊かさ、美しさ、輝き、そういうものだけがいっぱい目に付きます。パリのシャンゼリゼ通りを散歩しました。、エルメス、グッチ、クリスチャンディオールなどブランドものお店の眩いお店が一杯であり、中国の方々が爆買いしていました。 ブランド物は決して悪いものではありません。ただ欲をもって目を上げると、結局はそれらの物の方向に行くしかありません。しかし、ロトはこれが後になってどういうことになったのか、この選び方が、とんでもない災いになる選び方であったことをやがて知ることになります。
2. アブラハムの選択 (創世記13:9~17)
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
❶ 目を上げて、「譲る選択をした」 (3:9)
アブラハムは、「ロトよ、君が左なら、私は右に行こう。もし君が右なら私は左に行こう。ロトよ、おまえは好きな地を選ぶがよい。私は残った所でよいから。」と、実に淡泊というか、アブラハムは譲る人です。
アブラハムは、ロトのに対して、叔父と甥という関係以上の父親のようにロトに関わってきました。
父が子を自立させるように、ロトを独立させようと考えました。ロトがもっと豊かになることを願ったのです。
ロトの信仰は、今までは、アブラハムを頼りとした信仰でした。ここで信仰的にも自立する事を願って、この譲る提案をしたのではないでしょうか? ですから、この譲る事も、アブラハムの信仰から出たことです。もし、アブラハムの肉からであれば、自分中心の利己主義から出てくるはずです。しかし、ここに見るアブラハムの態度は、まるで父のように、与えることを喜びとしています。
イエス様の語られた「受けるよりも、与える方が幸いである」ことの実践です。
アブラハムは、神の前にも、人の前にも謙遜な者とされていました。神の前に謙遜な人は、人に対しても謙遜です。「私は神に対しては、謙遜だが、人には違う」というような謙遜は、本当の謙遜ではありません。
アブラハムのこの謙遜は、エジプトでのあの失敗、約束の地を離れ、王ファラオに嘘をつき、危機一髪の中から主に助け出された。そして本当に悔い改め、信仰の原点に立ち返り、祭壇を築き、立ち返りました。
この出来事で、アブラハムは、打ち砕かれました。自分は主から離れたら何も無い者だということを、つくずく示されてことでしょう。ですからロトに対しても自分を低くしています。譲る人になったのです。あなたも譲る人になりましょう。皆さんアーメンですか?
❷ 目を上げて、「主を見た」 (3:14~17)
13:14 ロトがアブラムから別れて行った後、【主】はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
ロトは、欲をもって目を上げました。そこに見たのはこの世の豊かさでした。しかし、アブラハムの場合は、主の御言葉に聞き従い、信仰をもって目を上げています。ですからアブラハムが見たものは何でしょうか?
「それは主です。」 同じ目を上げるにしても、全く違います。 欲で目を上げる時は、この世の豊かさが目に付き、それを求めます。目先のものだけを求めます。 しかし、信仰によって、目を上げる時には、目先のことよりも、はるかに越えて、彼方なる永遠、未来のことがそこに見渡せるのです。
(Ⅰヨハネ2:17) 「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」
誤解してほしくないのですが、これは禁欲主義の勧めではありません。私たちは自由意志が与えられています。自由に選択し、喜び、楽しむことができます。
しかし、ロトのように、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢だけで、選ぶ事は、最初のうちはそれで、よかったでしょうけれども、やがてロトの選択したソドムとゴモラの町は繁栄した町でしたが、同時に罪に満ち、あらゆる汚れに満ちた都会でした。ついには神の裁きによって天から硫黄のような炎が下り、焼き滅ぼされてしまうのです。ロトは、アブラハムのおかげで、命からがら、逃げ出すことになります。豊かさを選んだはずが、全ての物を失い、元の子もなくしてしまうです。ロトのように中途半端な信仰で、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りで、この世に向かって行く時、必ずやロトのような結末に至ることになるでしょう。
しかし、アブラハムは、生ける主なる神と共にありました。 アブラハムにとって、本当の持ち物は、主だけでした。主こそ、アブラハムの財産でした。だからこのような態度が取れたのです。その結果、主は2つの祝福の約束を与えられました。第1は、見渡すカナンの地全部を永久に、あなたの子孫に与える。第2は、アブラハムの子孫は地のちりのように、数え切れないほど多くの民となるという祝福が約束されました。
愛する皆さん、私たちも目を上げて、主だけを見ましょう。そしてアブラハムの祝福を受けましょう。
皆さんアーメンですか?
結論: 「あなたも主に望みをおく者となる」
❶ あなたもアブラハムのように「与える人になる」
アブラハムは、父のように、ロトを父のように愛して、自立させるために、与える人となりました。
あなたも、父として、親として、愛する子や兄弟姉妹の信仰の自立のために、また友のために、与える人になりましょう!
❷ あなたもアブラハムのように「ゆだねる人になる」
アブラハムは、ロトに選択を譲り、すべての結果は、主を信頼し、主にゆだねたのです。主にゆだねて、アブラハムは、目に見えるカナンの地のすべてを受けるという主の祝福を受けました。
今週21日(金)公開の映画『パピヨン』があります。この映画は実話です。昔、 スティーブ・マックイーンが主演したリメーク版です。これは実在の人アンリ・シャリエール(1906~73年)が無実の罪とフランスの植民地の島に投獄され、自由を求めて3度脱獄したついに成功するという実話です。チャーリー・ハナムと「ボヘミアン・ラプソディ」で、アカデミー賞最優秀主演男優賞を獲得したラミ・マレックが主演。
何度も失敗し、ついに成功するその秘訣は、主にすべてをゆだねることでした。
箴言16:3 「あなたのわざを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。」
❸ あなたもアブラハムのように「主に望みをおく人なる」
アブラハムは、主に望みを置く人でした。アブラハムにとって本当の持ち物は主だけでした。
主こそ彼の財産でした。だから、ロトにすべてを譲ることができました。アブラハムは、主の望みを置き、この地上では旅人、寄留者として歩む信仰の人でした。この世の人にこの世の物は取らせて、自分はその残りの物を取っていく。これが旅人、寄留者です。 でも普通、取る者に取らせたら、到底やってはいけないのではないかと疑問が起こります。それではやってはいけなくなるのではないか? 人々は、我先にと、いつも肉の欲、目の欲で、この世のものを取っていこうと争っています。この世は競争社会です。
アブラハムは、私たちへのチャレンジです。アブラハムのように天を目指し、主をわが財産とする人は、
「取る者には取らせよ。 私は残り物を取っていく。」 こうすれば、互いに譲り合い、互い与え合うことが可能となります。この地上では、旅人、寄留者は、決して行き詰まることはありません。行き詰まるのはロトの道を選んだ人です。行き詰まるのは、目先の持ち物に目の色を変える人たちです。
- 【新改訳第3版】詩篇16編
16:5 【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。 16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
主に望みをおく人は、あなたも、アブラハムやこの詩篇を書いたダビデのように、このように告白するようになるのです。 人の目に見える所をは、本当に悪い所に見えます。なぜなら、良い所はみんなロトに。
残った悪い所は、アブラハムにと見えます。しかし、主を信頼し、主に望みをおくアブラハムにとっては、「測り縄は、私のために好む所に落ちた。まことに私への、すばらしいゆずりの地だ。」(相続地)ということができたのです。それはちょうど、アブラハムからはひ孫にあたるヨセフのケースと同じです。ヨセフにとって、置かれた場所が、本当に良いゆずりの地になっていきました。ヨセフは、兄弟たちから嫉妬されて、エジプトに奴隷として売られました。奴隷の場所は全くひどい場所です。しかし、主がヨセフと共におられましたらから、そこが好ましい所となりました。だから祝福されて奴隷であっても、みじめな奴隷ではなかったのです。主人に代わってその家の頭になりました。また無実の罪の牢獄に投獄されました。それこそ好ましくない所に測り縄は落ちたのですが、ヨセフとっては好ましい所となりました。牢獄でも腐らずに忠実に仕えて、祝福されて、牢獄全体の責任者になります。そこでも用いられました。そして、測り縄は次から次へと、良い所に落ちて、ついには、ヨセフはエジプトの王に次ぐ、総理大臣にまで上りました。しかし、そうなっても、ヨセフは、主がすべてでしたから、おごらず、どこまでも地上では、旅人、寄留者でした。
(証し)私の個人的な証ですが、いつもアブラハムの信仰に倣ってきました。人生の選択で2つの道の別れ目に立った時は、いつも決める原則があります。広い道と狭い道があるなら、あなたはどちらを選びますか? 私は必ず、狭い道、厳しい道、人間的には損である道を選んできました。初めの選択は、神学校を卒業する時でした。いくつかの教団・教会から招聘を頂きました。福音自由教会や長老教会からも招聘を頂きました。その中で、私が選択したのは、奉仕が一番厳しく、牧師給も一番低い教会でした。それが武庫之荘福音自由教会でした。そこで6年間、青年担当の牧師としていつも家庭を開放し、青年たちを毎週食事招き、伝道牧会しました。そこが好ましい測り綱の所となりました。沢山の中高生、若者が救われ、献身して、主の素晴らしい恵みを体験しました。その次は、北九州の門司でのゼロからの開拓伝道に遣わされるという選択です。経済的にも霊的にも、本当に厳しい戦いの中での開拓伝道でした。でもそこが主の好ましい測り綱が落ちた所となりました。6年間で40名の群れに開拓教会は成長し、会堂建築を目指そうという所まで成長しました。その時、この片柳教会から招聘を頂きました。教会が韓国のタラッパンという伝道運動で分裂した母教会を再建して欲しいという招聘でした。「主よ、なぜ、あなたは招聘の度に、道は益々狭く、益々厳しい道を私に与えられるのですか?」と祈りました。でも主のみこころに逆らえません。祝福された開拓教会の人々を主の御手にゆだね、小学2年生の娘と妻3人で、北九州空港から、教会の皆さん全員に見送られて、片柳教会に20年前に赴任しました。当初、教会の再建は困難を極め、体調を崩し、突発性難聴、糖尿病、腰痛と満身創痍となりました。しかし、測り綱は好ましい所に落ちたのです。この20年間、教会の愛する皆様と共に一生懸命に働き、主の共に働いて下さり、主は、素晴らしい御業を見せてくださいました。地域に開かれた誰でも安心できる教会のビジョンが与えられました。そして沢山の兄弟姉妹が救われ、神の家族に加えられ、障がい者のためのGHの働きがはじまり、素晴らしい新会堂建築の神の奇跡の御業を体験させて頂きました。これから更に素晴らしい御業を主に見せて頂ける事が楽しみです。 パウロは語っています(Ⅱコリント6:10 )私たちは「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」主に望みをおく者は、神と共にすべてを持つ者です。アブラハムの信仰を受け継ぐ者は、いよいよ祝福されます。これが信仰の歩みの素晴らしさです。主が共におられますから、どんな荒野の旅も、楽しいのです。あなたは今、どんな荒野を旅していますか? 病や経済な困難、受験や仕事の子育ての問題があってもアブラハムが荒野のヘブロンに天幕と祭壇を築いたように、しっかり地に根を張り、礼拝をささげ、主と共に歩みましょう。皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の主の御名を賛美します。今日の父の日の礼拝を感謝します。お父様方の日頃のお仕事、教会の奉仕に心から感謝します。おひとりおひとりに聖霊様の豊かな油注ぎがあり、主の祝福に満たされて、父の祝福を与えることができますように、その責任と勤めを全うすることができますように祝福してください。私たちもアブラハムのように目を上げて、信仰の目をもってあなたを見上げ、与える人、主にゆだねる人、主に望みをおく人になれますようにお導きください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。主よ感謝します。」
2019年6月9日
6月2日
『 アブラハムの試練と失敗 ~変わることのない神の真実~ 』
説教 2019年5月26日
旧約聖書: 創世記12章6~20節
片柳教会・主日礼拝
「祝福の後には、試練がやって来る」皆さんは経験されたことはありませんか?
たとえば、洗礼式の後で、試練に遭う。入学式、就職して、結婚式の後で、試練に遭う。色々なケースがありますが、祝福を受けた後には、必ずといっていいほどに、試練がやって来ます。我らのアブラハムとその一族もそうでした。主の祝福を受けた後に、試練に遭いエジプトで大きな危機を迎えます。
1.アブラハムの「試練」
(創世記12:6~10)
12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに【主】のための祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。
12:9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
12:10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
アブラハムは、主の召命の御言葉を受けて、ウルを旅立ちカナンを目指しましたが、父テラが途中のハランに立ち止ってしまました。しかし、父の死後、主は再び、アブラハムに御言葉を与えられました。アブラハムは、再び立ち上がり、カナンを目指し、甥のロト、妻サライと沢山の僕たちを連れて、ついにカナンの地に入り、シェケムに着きました。主は、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」語られて、祝福されました。アブラハムは、そこに祭壇を築き、礼拝しました。しかし、そこにはカナン人がいました。それで、そこに滞在しないで、さらに少し南にベテル、アイ、さらにネゲブへと移動して天幕を張りました。
少し位なら大丈夫だろうと自分で勝手に解釈して、約束の地から少しずつ離れて、微妙に信仰のズレが生じていたのです。そんな時に、アブラハムは試練に遭いました。
最初の試練は、「生活の問題」です。主が与えられたこの試練こそ、アブラハムの実生活における試験・主のテストでした。アブラハムがこの「生活の問題」にどのように対処するのか見物です。カナンの地に飢饉がやってきて、生活が営むことができなくなりました。イスラエルはもともと水が少ないところです。見沼用水のように、荒川から灌漑工事で水を引くことはできません。
イスラエルのヨルダン川は海面下400mです。世界で一番低い川です。灌漑が出来ません。雨水以外に水がないのです。その雨が降らず、飢饉になりました。水は命に直結します。アブラハムは、妻や甥のロト、僕たちを入れると150名位の大所帯となっていました。隣のエジプトにはナイル川という水の豊かな大河が流れています。エジプトは飢饉とは無縁です。エジプトは、いつも豊かです。ですから、ききんになったら、エジプトに避難する、それが当時の常識でした。ここでアブラハムが主のみこころを求めて祈ったという記録はありません。アブラハムは、この世の常識に従って、エジプトへと生活のためにやって行きました。水という生活の問題のために、ほんの短い間だけだからと言っても、やはり主の約束の地に留まるべきでした。それを主に祈り求めることもなく、いとも簡単に約束の地を見捨て、エジプトへ下りました。
第1に、主のみこころを求めるべきでした。その結果、カナンの地に留まることが主のみこころならば、カナンの地でも、生きることができたはずです。もし、エジプトに下ることがなれば、主を信頼して、エジプトに下り、アブラハムは、主の守りを信じることができたはずです。ここに失敗の原因があります。信仰の父と呼ばれたアブラハムも失敗しまいました。ですから私たちは気落ちすべきではありません。私たちも失敗を通して自分の弱さを知らされ、もう一度、謙遜になることを学びましょう!皆さんアーメンですか?
2.アブラハムの「弱さ」
(創世記12:10~13)
12:10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
12:11 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。
12:12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。
12:13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」
いよいよエジプトに入ろうとした時に、アブラハムの心も、いよいよ不安と恐れでいっぱいになりました。
アブラハムの肉的な考えが頭をもたげてきたのです。妻サライは美人であり、もしアブラハムの妻であることがわかると、サライを奪うために、夫の自分を殺されてしまうのではないという心配です。
当時、妻は夫の持ち物、所有物でしたから、どうしても自分の所有物にしたければ、その持ち主を無き者いしなければなりません。それをアブラハムは非常に恐れました。そして策略を巡らして妻に話しました。
「どうか、あなたは、私の妹だと言いてくれ。そうすれば、私の命はあなたによって助かるだろう。」
アブラハムがサライの兄だということで命は助かり、その上、優遇されると策略を考えたのです。
確かに妻のサライは、母違いの異母兄妹でした。ですから妹というのは半分事実です。でも妻であることに違いはありません。妻であることを隠して、嘘をつきました。信仰者として嘘をつくべきではありませんでした。たとえ半分の嘘でも「嘘は嘘です」半分の嘘は完全な嘘よちももっと危険です。
昔から『策士策に溺れる』と言われます。
頭の良い人、策略のうまい人は自分の策略に頼りすぎて、かえって失敗するのです。
この嘘は、アブラハムの不信仰から出たことでした。
主のみこころの道を歩んでいるという確信がないために主の守りを信じることができず、自分の知恵で、自分を守るほかに方法がなかったのです。
今日の場面を見ると、世の人と変わらず、人の持つ弱さは同じだということが分かります。
そして私たちは、ひとたび人を恐れ、自分を守ろうとすると、もう他の人のことは考えられません。
どんなに親しい関係でも、いざ自分の身がかわいいとなると、妻であろうが、夫であろうが、我が子であっても、自分の身を守るために用いるのです。私たちは自分中心の罪人です。
ここにいるアブラハムは、神に御言葉からはずれ、信仰からはずれてしまったただただ弱い、脆いアブラハムの姿です。妻もかわいい、しかし、いざとなれば、まず自分が先です。自分を守るしかないアブラハムです。信仰の人が信仰からはずれた時にはどうなるのか? それこそ信仰の無い人よりもみじめになるのです。うそを本当のように、自分で自分に言い聞かせて、ついにはエジプトの王様もだますという卑怯な態度をとらなければならなくなりました。これは中途半端なクリスチャンに多い態度ですね。
しかし、主にゆだね、主に明け渡している人は、いついかなる時も自分をかばう必要はありません。
すべてをかばってくださるのは主ですから、何も自分でかばう必要はありません。嘘をつく必要もありません。いつだってありのままでおれるのです。皆さん、嘘はやめましょう! アーメンですか?
3.アブラハムの「危機」
(創世記12:14~20)
12:14 アブラムがエジプトにやって来たとき、エジプト人はサライを見て、非常に美しいと思った。
12:15 ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
12:16 アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。
12:18 そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。
12:19 なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」
12:20 ファラオがアブラムについて家来に命じたので、彼らは彼を、妻と、所有するすべてのものと一緒に送り出した。
神の約束から離れたアブラハムにとって、エジプトにあったものは、ただこの世と妥協し、この世にたより、それゆえに自分の知恵と策略で自分を守るしかない、まことに臆病な、弱い弱いアブラハムでした。
その結果どうなったでしょうか?すべてはアブラハムの策略通りに事が運んだかに見えました。エジプト人は妻サライの美しいのを見て、エジプトの王ファラオに推薦しました。妻サライは王宮に側室として召し入れられました。アブラハムはサライの兄として、家畜をはじめ沢山の財宝と贈り物を与えられました。
しかし表面的な繁栄と裏腹に、霊的な重大な危機を迎えていました。妻サライは、王のそばめとなり、アブラハムは、自分の妻に姦淫の罪を犯させることで、アブラハム夫妻は、重大な結婚の危機に直面したのです。その上に、「あなたの子孫によって、全世界のすべての民族は祝福される」という祝福の約束も危機にさらされました。まさに絶体絶命の危機です。
17節に「しかし主は」とあります。何と素晴らしい「しかし」ではないでしょうか?人の目はごまかせても、主の目はごまかすことはできない。人は、自分の都合で、不信仰によって行動する。「しかし」主はご自身の約束に忠実に行動される。主はご介入によって妻サライは守られました。
ここでのエジプトの王様の態度は、立派ですね。信仰者に対して未信者の人が戒めています。これでは、あべこべです。ここに主のあわれみがあります。
主のご介入によって、アブラハムと妻サライは、絶対絶命の危機から救い出されました。主は未信者を用いて、信仰者の誤りを正してくださったのです。信仰からはずれると未信者よりも劣る者になります。
信仰のない人をどうのこうのと言って上から裁く資格など、私たちには何もありません。ただ主の憐れによって守られているのです。
詩篇 28:7 「主は私の力私の盾。私の心は主に拠り頼み私は助けられた。私の心は喜び躍り私は歌をもって主に感謝しよう。主はあなたを守る盾、」
結論:「主の真実とあわれみは、変わることはない」
❶ あなたへの主の真実とあわれみは、変わることはない。
アブラハムのいい加減さ、アブラハムの不真実があっても、神の真実を変えることはありませんでした。
私たちの弱さ、失敗、罪によって、神の契約、お約束が、あなたの不始末によって変わってしまうことなどないからです。
(ローマ人への手紙3章3~4節)
3:3 ではどうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。
3:4 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。
どんなに、私たちが、あなたがいいかげんで、中途半端で、不真実になっても、神の真実は絶対に代わりません。なぜなら神は真実はお方だからです。
(Ⅱテモテへの手紙2:13)
「 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」
アブラハムが信仰からはずれ、不真実な状態になっても、それで神の御言葉は無効になったのか?
だめになったかというと、そうではありません。主は、どこまでも、どこまで真実なお方です。
主の約束は、不妊の妻サライを通してやがて救い主イエス様を全人類の救いのために与えるというご計画に変更はありません。
アブラハムは、身をもって学んだことでしょう、それこそ、死ぬような苦痛を味わいました。
悪者と恐れたエジプトに王様ファラオに戒められ、赦されて、財産も命も奪われて当然のところを赦されて、お贈り物を持って、もっと豊かにされてエジプトを後にしました。
これこそ、主の憐れです。あなたもどんなことがあっても、真実な主により頼みましょう!
いよいよ主を礼拝し、主の御言葉に立ちましょう。皆さんアーメンですか?
❷ あなたの生活の問題の解決は、主を第一にすることです。(マタイ6:31~33)
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
あなたは、「生活の問題」で思い煩ってはおられませんか?衣食住や仕事、学校、育児で悩んではいませんか? アブラハムは、思い煩い、失敗しました。
実は、「生活の問題」の解決は、主を第一にすることです。
(証し)「伝道者である私の経験から証しです。」
私は、大学を卒業して、KGKで学生伝道の主事になりました。 超教派の伝道団体ですからOBと教会の献金が給与でした。今は、改善していますが、1980年頃、40年前は毎月、給与の遅配でした。1~2カ月、大変な時は3カ月給与が出ないのです。私は、毎日、毎朝、「主の祈り」のように「主よ、今日の糧をお与えください!」と祈らなければ生活することができませんでした。
しかし、食事に窮するとか、主に献金が献げられない事は、一度もありませんでした。いつも必要は満たされました。この経験は素晴らしい主の訓練となりました。みこころなら必ず必要は満たされるというゆるぎない信仰の確信となりました。神学生時代も、牧師になりってからもです。北九州の門司に開拓伝道に遣わされました。0からのスタートです。経済的な戦いは、厳しいものがありました。しかし、家族が飢えることもなく、子どもの学費も、幼稚園から大学院まですべての必要を主は満たしてくださいました。大学院の卒業式の日、家族みんなで手を取り合って主に感謝しました。これらの主の訓練が新会堂建築や障がい者のグループホームの働きに生かされました。
いつも主に一生懸命に祈り、主は必要を必ず満たしてくださいました。主は生きておられます。
生活の問題は、主に祈り、主を第1にしましょう!主は生きておられます。皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう!「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、三位一体の素晴らしい御名を賛美します。
私たちの地上の歩みは、様々な試練があります。大きな祝福の後には、必ず試練もやってきます。そこで私たちアブラハムのように、この世の常識や知恵により頼み、自分を守るために、嘘をつき、ゴマなし、失敗します。自分の弱さと罪に気づきを与え、真の悔い改めにお導きください。あなたは私たちの人生の危機の中に、ご介入して、真実と憐れみをもって助け、お救いくださることに心から感謝いたします。
私たちの生活の問題、思い煩いも、主のみ言葉に立ち、いつもあなたを第一に、主の解決と祝福を受けることができますように、感謝して主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」
『 あなたは祝福の基となる ~祭壇と天幕を築く~ 』
母の日の礼拝 『母マリアの信仰 ~レット・イット・ビー~ 』


1.マリアへの 「祝福」 (ルカ1:26~31)
