『 キリストの花嫁リベカの信仰 』 2020年2月9日
旧約聖書:創世記 24章61~67節 片柳教会・主日礼拝
●序.先週は、アブラハム息子イサクとリベカの結婚の美しい物語を学びました。
そしてイサクは、キリストを現わし、リベカは教会を現わしていることをエペソ人への手紙から学びました。
今日は、キリストの花嫁である私たち教会の模範となったリベカの信仰から私たちの信仰についてご一緒に学びましょう!
●1. キリストの花嫁としてのリベカは 「従順な」 信仰 (創世記24:50~61)
24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人の後について行った。こうして、しもべはリベカを連れ帰った。
アブラハムのイサクの妻として選ばれたのはリベカという女性です。リベカはイサクの妻となるために、アブラハムのしもべエリエゼルに従って、自分の生まれ故郷を出ることになりました。
井戸の傍らで初めてアブラハムのしもべに出会った時から、リベカの態度は、ただ受け入れること、そしてただ従うこと、一貫しています。
しべが「水を飲ませてください」と言われれば、「ハイ」と言ってその申し出を受け入れて、人にだけでなく、ラクダ10頭にも「水を汲んで飲ませてあげました」。次に、しもべから「あなたのお家には、私たちの泊まれる場所はありますか? ラクダの藁とエサもありますか?」と尋ねられると、リベカは、家に泊まる部屋があること、ラクダのための藁もエサも十分にあることを告げて、走ってお家に帰り、しもべたちを歓迎しました。
さらに、お嫁さんとして選ばれたことを告げられて、父と兄から「お前はこの人と一緒に行くか?」と尋ねられると、すぐに受け入れて、「はい、行きます」と応答しました。
こうしてリベカは、その侍女たちと立ち上がり、共にラクダに乗り、その人の後について行ったのです。
ここでも、「従順に従う」リベカの姿を見ることができます。
でも、皆さん、少し想像してください。これから生まれた土地を離れ、家族とも別れて、全く未知の地へと踏み出すのです。 結婚する相手がどういう人であるのか、まだ会ったこともない、写真を見たこともない、全く知りません。カナンという土地がどういう気候で、どのような人々が生活しているのかもわからない。そこまで、どの道を通って行くのかも分からない、生まれ故郷から生まれて初めて外の未知の世界に旅立つのです。
しかし、リベカは立ち上がり、ラクダに乗り、その人の後をついて行きました。
リベカは、キリストの花嫁です。私たち教会、クリスチャンを表しています。
あなたは主に選ばれ、主からの呼びかけを受けて、イエス様を信じ、心にお迎えし、主に従う信仰に踏み出しました。これと似ています。
私たちも、今まで経験したことのない道へと踏み出すことにおいて、リベカと同じです。
私などは、クリスチャンホームに生まれたわけでもありません。むしろ神社の神主の孫です。
クリスチャンホームならぬ、神道ホームですよ。田舎では、まわりにクリスチャンは一人もいませんでした。
私が、田舎では、初めてのクリスチャンです。そして初めての牧師です。
リベカは、「その人の後について行った」とあります。信頼がなければ、とても従っては行けません。
はたしてこの人が言われることは、本当だろうか? 本当に私はお嫁さんとして迎えられるのだろうか?
迎えてくれる人は、果たして、この人が話してくれたように立派な素晴らしい信仰の人たちなんだろうか?
もし、うそだったらとんでもないことになる。疑えば、きりがありません。
聖書の信仰の世界もそうです。疑えばきりがありません。だって、まだ見ていないんですから、天国だって行ったことがないんですから。でも、主に従うことから、全てが始まります。
私たちもリベカのように、「主への従順な信仰」をもって主に従いましょう。皆さんアーメンですか?
●2. キリストの花嫁としてのリベカは 「 信じ、行動する 」 信仰 (へブル11:1~3)
リベカは、未知なる世界に踏み出しました。だから信じること、ただその一点にあります。
ヘブル11章1~3節
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
リベカは、まだ見ていません。しかし、アブラハムのしもべエリエゼルの話を聞き、素直に受け入れた時に、リベカの心に望みが生まれ、まだ見てはいませんが、もうすでに見ているかのように確信して、その人に従って出で行きました。
まだ見たこともない人との結婚を決断するには、主の導きに対する信仰が必要です。
本当の信仰の姿がここにあります。「信仰とは、まだ見てはいないが、御言葉により、もう見ているかのように信じて、行動することです。」 私たちの聖書の信仰もそのようなものです。
リベカは、ただ信じました。そして従いました。信じる事と従う事とは1つの事だということを証明したのです。ですから信仰は、行動です。信じる事と行動とは1つのことです。
「リベカは、見ずして信じる信仰の人です」
リベカは、信じて、立ち上がり、らくだに乗って、その人の後について行ったのです。
信仰即行動、信行一致とでもいいましょうか? リベカは、ただ信じる人であり、即行動の人です。
●アブラハムが生まれ故郷のウルを出た時もそうでした。(創世記12:1~2・4)
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:4 アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。
アブラハムが主の御言葉を信じたということは、その御言葉に従って、故郷を出て行くことでした。
●ノアの場合もそうでした。洪水による世界のさばきと箱船を造りなさいという主の御言葉を聞いて信じたノアは、直ちに箱舟を造り始めました。
(へブル11:7)「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
●きっと、皆さんも「私は信じています」とおっしゃる思います。では、どんな信じ方でしょうか?
「リベカは立ち上がり」とあります。あなたも「立ち上がって」という行動になっているでしょうか?
信じて立ち上がっていますか? 「ハイ」と返事しているだけで、まだ座り込んだままではいませんか?
それとも、もう従って一歩踏み出しているでしょうか? 信仰による歩みが始まりましたか?
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させのです。」私たちも、アブラハム、ノア、リベカのように、御言葉を信じ、立ち上がり、行動する者となりましょう。皆さんアーメンですか?
●結論: 「あなたも、信仰の交わりを保ち、前進しよう!」
❶ 信仰の交わり(小グループの交わり)を保つ
リベカはカナンの地を目指し、イサクとの結婚に向かって、未知の長い旅が始まりました。
野を越え、山を越え、川を渡り、焼けつくような荒野を越え、困難な道を通る、長い長い旅が続きます。
リベカは、ただ連れて行ってくれるアブラハムのしもべエリエゼルを信頼して付いて行きました。
しかし、困難な旅が進むにつれて、険しいた旅路に不安な心細い思いが心に満ちたことでしょう。
そんなリベカを支えたものは何でしょうか?
それはアブラハムのしもべたちとの交わりでした。アブラハムのしもべたち、仲間との交わりでした。
旅を続けて、一緒に食事を共にして、人柄に触れ、信頼できる人たちだと確信し、心に生じる不安が消えて、平安と希望に変えられたに違いありません。
愛する皆さん、私たちの信仰の旅路も同じです。信仰の歩みが始まると、そこにはすでに信仰の仲間がいます。あなたを指導して導いてくれる先輩がいます。一緒に祈ってくれる兄弟姉妹がいます。歩む道は平たんではありません。困難や試練があります。疑いが起こり、躓きがあり、不安な気持ちにもなります。
リベカの不安に満ちた旅が、楽しい旅に変えられのは、アブラハムのしもべたちとの交わりでした。
しもべが道々、話してくれたアブラハムの事、イサクの事、夫になるイサクの人柄や信仰、ヘブロンでのアブラハム一族の生活の様子など、イサクに対する理解が日々重ねられ、深められて行きました。
私たちも、たったひとりで信仰生活を送れる人はいません。神の家族と共に礼拝をささげ、小グループで兄弟姉妹との安全な交わりの中で、兄弟姉妹と何でも分かち合い、祈り合い、励まし合って、信仰の旅を歩んで行くのです。今日も礼拝後に小グループの祈り会が持たれます。信仰の交わりを大切にしましょう。
皆さんアーメンですか?
❷ うしろのものを忘れ、前に向かって進む (ピリピ人への手紙3章13~14節)
3:13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている
のです。
リベカは、うしろを忘れ、これから行き先に対する望みをいよいよ固くし、強くして前進して行きました。
もし、自分の行く先に対する望みが強くなっていかなければどうでしょうか?
だんだん、イサクは、なんだかつまらない男性で、退屈な人の所に行くようで、行くことが嫌になります。
ああ今頃は、お母さんやお兄さんは、お父さんたちと楽しい夕食のご馳走を食べている頃だわ! ホームシックにかかり、旅がいやになってしまうでしょう。しかし、これから嫁いでいく先にある夫となるイサクとその父アブラハムの家の素晴らしさを知らされて、それがわかればわかるほど、リベカの旅は、うしろを忘れ、ひたすら前のものに向かって進む楽しい旅となりました。
私たちの信仰の旅路もそうです。主イエス様の素晴らしさが日に日に理解が深まり、目指す神の国、天国への望みは、いよいよ堅くされ、うしろもものを忘れて、ただただ前に備えられたものを慕い求めて、前進する歩みがそこに現れていくものです。
私たちクリスチャン、教会は、キリストの花嫁として選ばれ、花婿となるイエス・キリスト様と結ばれ、神の国の実現の時を望みつつ。この地上の旅を続けていく者たちです。
リベカがイサクの花嫁として選ばれ、旅するのと同じです。ですから私たちも、イエス様のことを御言葉により、聖霊様の導きと、教会の交わりを通して、本当に深く味わい、わかってくると、それにつれて、うしろを忘れ、ただ前に向かっていよいよ強くされて行きます。これが生きた信仰です。
● ちょうど、父アブラハムと子どもイサクとしもべエリエゼルは、父なる神様、御子イエス様、聖霊様の三位一体の神を表しています。しもべは、アブラハムから遣わされて、リベカの所に行きました。同じように、聖霊様は、父なる神から遣わされて、私たちの所に来てくださいました。この聖霊様のお働きと呼びかけがなければ、聖霊様の導きがなければ、イエス様を救い主、人生の主と告白し、信仰を持つことをできません。聖霊様が、何も知らない者、あなたに呼びかけ、引き出してくださったように、しもべはリベカを引き出したのです。
そして、私たちと絶えず共にあって神の真理を教えてくださり、父なる神様について、御子イエス様について深く教え、神の真理と事実を悟らせ、絶えず励ましてくださるのです。それゆえに、私たちは、父なる神の素晴らしさ、御子イエス様の素晴らしさを知らされて、いよいよ主への愛と信頼を益々増し加えて、主を慕い、求めるのです。 聖霊様を信頼し、信仰の旅路を天の御国向かって続けて行くのです。
●(第Ⅰコリント人への手紙13章12節)
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
リベカがついに、顔と顔とを合わせて、イサクと出会い、結ばれて結婚したように、やがて、あなたも、キリストの花嫁として、天において主イエス様と顔と顔とを合わせて、一つと結ばれる日が来るのです。
それは信仰の旅路の完成であり、この地上の歩み終え、罪の肉体からも解放されて、主イエス様とひとつとなる救いの完成を見るのです。
その日を待ち望み、うしろのものを忘れ、前に向かって進んで参りましょう!皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう。「父なる神様、御子イエス様、聖霊様、御名を賛美します。私たちは信仰の旅路において、疑い、悩み、迷います。私たちを憐れんでください。私たちの不信仰をお許しください。イサクと結婚したリベカはキリストの花嫁です。私たちもキリストの花嫁なる教会です。私たちもリベカのように従順な主への信頼と信仰をもって、主に従い、御言葉を、信じて行動する者とならせてください。また信仰の交わりを保ち、弱い私たちが兄弟姉妹と祈り合い、励まし合い、うしろのものを忘れ、前に向かって進み、やがてこの地上の歩みを全うし、イエス様と顔と顔とを合わせ、救いの完成の日を迎えることができますようにお一人おひとりを聖霊様が導き祝福してください。主イエス・キリスト様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」