『 自分のアキレス腱を知る ~イサクとリベカの家庭崩壊~』
旧約聖書:創世記27章1〜30節
●序. アキレスは古代ギリシャのトロイ戦争の英雄です。映画「トロイ」ではブラッド・ピットがアキレスを熱演していました。敵の弓が偶然アキレスの足に当たり彼は死んでしまいました。あなたのアキレス腱は何でしようか? 「アキレス腱は、人間の弱点です。」今日のテーマは「自分のアキレス腱を知る」です。イサクとリベカの家庭に起こった跡目相続を巡る争いの顛末記から言御葉を受けましょう。
●1.イサクのアキレス腱は「肉料理」(創世記27:1~4)
27:1 イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。
こんな和歌があります。「行く末の見える頃には、目がかすみ 人の言う事なにも聞こえず」
人は、自分の視力が衰えた時に、老いだけではなく、死を感じるようです。
イサクも年を取り、視力も衰えた時、自分の死の近いことを悟ります。
長男エサウを呼び「わが息子エサウよ。我が一族の家督の権利をお前にゆずることにする。長子の祝福をお前に授ける」と語ります。人生には限りがあります。親から子へ、子から孫へとバトンタッチとなります。人はみなかかる時を迎えるのです。世代交代です。長男エサウは、後継ぎとしては、相応しくありませんでした。エサウは雑婚です。
●26:34 エサウは四十歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。
26:35 彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。
衝動的な長男エサウは、気の向くままに、ひとり、またひとりと妻としていました。エサウは、地元の異邦人の娘2人を妻としていたのです。親のイサクとリベカは終生は一夫一妻でしたが、エサウは一夫多妻で、イサクとリベカの悩みの種となっていました。エサウは、信仰的にも、世間的にも、両親とは合わず、特にリベカとは仲も悪く争いが絶えませんでした。
すでに、皆さんもご存じのように、エサウは、以前、空腹の時に、一杯の豆のスープと引き換えに、ヤコブに長子の権利を売ってしまった。軽率な愚か者でした。
それでも、イサクは、一族の後継ぎの家督を長男サウに譲ろうとしました。しかし、これは主のみこころに反することでした。双子の兄弟が生まれる前に(創世記25:23)「兄が弟に仕える」と主が語っておられたからです。なぜ、主の御心に反しても、長男エサウにこだわったのでしょうか?
●27:3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
27:4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」
エサウは、アウトドアタイプで、野の人でした。エサウは、猟が得意で獲物を捕ってきて父イサクにご馳走してくれました。イサクの「アキレス腱」は「肉料理」でした。イサクは、「肉が大好物」でした。私もお肉は好きです。イサクは、特に野生の鹿の肉が大好物でした。口語訳聖書は、3節で「しかの肉」と訳しています。日本でも、北海道のエゾ鹿の肉はブランドの美味しいお肉としてよく知られています。イサクは、エサウを祝福する時に、美味しい鹿肉の鍋料理を作らせて、それを祝福の交換条件に、肉鍋を食べさせてくれたら、お前を祝福しようと約束したのです。
これは、鹿の肉を食べるという文字通り自分の肉欲を満足させることが優先でした。
イサクは、無益な争いを避け、平和を愛する、信仰の人、祈り人でした。しかし、彼の霊的なアキレス腱、弱点は、「肉の料理」でした。
● 皆さん、皆さんはイサクを笑いますか?
イサクという名前は「笑う」という意味です。この「しか肉の鍋料理を食べたい」これがイサクのアキレス腱、弱点でした。
私たちは誰しもみんなアキレス腱を持っています。弱点の無い人はいません。でも、自分のアキレス腱を知ってないと、大変な災い、大失態、時には禍根を残す呪いとなってしまうのです。アキレス腱を侮っては行けません。
アキレス腱は、人によって違います。イサクのように食べることが何よりも大好きな人、食欲、性欲、睡眠、人の評価、名誉欲、仕事中毒、ネット中毒、ゲーム依存、テレビ中毒、趣味中毒(ゴルフやスポーツ、音楽、骨董品の収集絵画、焼物、書、)過度なマイホーム主義、本の収集、車、お金、ブランド品、貴金属、株や投資、体のエクササイズ、お酒や女性、ギャンブル、その他、色々なものが私たちのアキレス腱となるのです。あなたのアキレス腱は、何でしょうか?自分の自身を見つめ、自分の弱さを知りましょう。皆さんアーメンですか?
●2. リベカのアキレス腱は「子ども」(創世記27:5~35)
27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福しよう。』
妻のリベカは、年老いたイサクと兄息子の話を立ち聞きしていました。 夫が兄エサウを祝福しようとしていることを知ったリベカは、その長子の祝福を横取りして弟ヤコブに与えようとします。
しっかり者のリベカは、二人息子エサウとヤコブという双子のうち弟息子ヤコブを愛していました。このイサク一族の家風を守り継承するのは、粗野で粗暴な兄エサウよりも、家を守る、インドアタイプ、思慮深く知恵がある弟息子ヤコブと思い、ヤコブが好きでした。
●リベカのアキレス腱は、「子ども」でした。
母親は自分のお腹を痛めて子どもを出産します。
ですから我が子は特別に可愛いのです。子どもが成長しても、精神的な臍の尾が、まだ繋がっている場合が多いのです。
リベカは生まれ故郷ハランを出て、はるばるカナンのアブラハム一族に嫁いだのです。彼女の夢を実現してくれるのは弟息子ヤコブでした。
リベカは「子どものヤコブによって、自分の夢の自己実現」を目指していました。
私たちも、リベカのように、自分の子どもたちに自分の果たせなかった夢を賭けたりします。
実家の経済的事情で出来なかった習い事、ピアノ、バレエ、英会話、果たせなかった受験、有名大学への進学、ですから受験に熱心なお母さんたちが沢山します。子どもの就職も親の自己実現を目指したりします。経済的に苦労すると、経済的成功を子どもに架けたりします。高給取りの仕事、医者や弁護士、公務員、教師を目指します。また、クリスチャンの親は、我が子に主に献身して欲しいと願います。子どもたちが主に献身することは素晴らしいことです。しかし、息子に主から牧師の召命が与えられていないのに、自分の息子が牧師になることで、牧師の母になるという自分の夢の自己実現を目指す母親もいます。このように子どもによって自分の夢を叶えようとするお母さんたちがおられます。
●リベカは子どもを支配し、コントロールしていました。夫のイサクはそれに気づいて、「お前、やめとけ」と夫として妻の暴走を止めるべきでした。ところがこのような母親は大抵、子どもだけではなく、夫も支配し、家族をコントロールしています。ですから夫のイサクは家庭の事では無力で、霊的イニシアティブを発揮することが出来ずに、いつも見て見ぬふりをしていたのです。それがやがて大きな家族の危機を招くことになりました。「お父さん、あなたの出番です。」
夫のリーダーシップを発揮しましょう!
リベカは、肉の動機で行動を開始します。
リベカは、策略を巡らし、子どものために計画し、母のプランに従うように弟息子ヤコブに指示を与えるのです。
●27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
27:11 ヤコブは母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。
27:12 もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります。」
このリベカの入れ知恵に、ヤコブは、首を横に振ります。「お母さま、それは出来ません。無理な事はやめてください。第一、お兄さんは、毛深いのに、私はツルツルですよ。お父様が祝福のために私の手を取ったら、気づかれるでしょう。そしてこの嘘つきめ、親をも騙そうというのかと、呪われてしまいます。ダメです。無茶です」 しかし、リベカは動じません。きっぱりと言い渡します。
●27:13 母は彼に言った。「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。」
27:14 それでヤコブは行って取って母のところに持って来た。母は父の好む、おいしい料理を作った。
27:15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった、上の息子エサウの衣を取って来て、それを下の息子ヤコブに着せ、
27:16 また、子やぎの毛皮を、彼の両腕と、首の滑らかなところに巻き付けた。
27:17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを、息子ヤコブの手に渡した。
なんとリベカは、兄エサウの晴れ着をヤコブに着せます。
その上、子ヤギのふさふさした毛皮を、ツルツルのヤコブの両腕と首にかぶらせるではありませんか。まさに、偽装工作です。目の悪い年老いた父イサクを騙す策略でした。「わが子ヤコブや。これならたとえお父さんが祝福のために手を取り、首を抱いても、この毛深さは、エサウだよ。この着物の匂いもエサウだよ。さあ、お母さんが作ったこの美味しい肉の鍋の料理をお父さんに持って行きなさい。早くしないとエサウが帰って来てしまう。」そしてヤコブは、父イサクの所に参ります。
●27:19 ヤコブは父に、「長男のエサウです。私はお父さんが言われたとおりにしました。どうぞ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。そうして、自ら私を祝福してください」と答えた。
27:20 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。」彼は答えた。「あなたの神、【主】が私のために、そうしてくださったのです。」
27:21 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。おまえが本当にわが子エサウなのかどうか、私はおまえにさわってみたい。」
「薄氷を履む」とは、まさにこれです。ヤコブは、いつばれるかと震えながら、「私は長男エサウです。どうぞ、起きて、私の獲物を召し上がってください。」ハラハラドキドキの場面です!
すると年老いた父イサクは、「ほお~。もう獲物を捕って来たのか? 早いこと。親孝行な息子よ。しかも料理もできたのか?」と半信半疑です。あわてたヤコブは「いや、これは主なる神様が、早くしてくださったのです」イサクは、いぶかります。「なんだと。主なる神様がだと、、、」
そんな信仰的なことをあのエサウが言うはずはないと怪しんだからです。そこで、「本当にエサウかどうか、お前に、さわってみたい」と言うではありませんか?
●27:22 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとして、
27:24 「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」
父イサクは、半信半疑ながら、ご馳走を食べることを優先します。
●27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
父イサクは、ご馳走をほおばり、上機嫌となります。そして、祝福することになります。
●27:26 父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。【主】が祝福された野の香りのようだ。
27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
祝福の内容は、3つです。
第1に、作物についての祝福です。
第2は、兄弟たちの主となるようにとの祝福です。
第3は、他の国民に主の祝福をもたらすパイプとなるようにという祝福です。
これらは基本的には、アブラハム、イサクへの祝福と同じものです。
弟ヤコブは、ついに父イサクから、後継ぎとしての祝福を受けたのです。いいえ「受けた」のではなく、「だまし取った」のです。「横取りした」のです。「せしめた!」ほどなくしてエサウが狩りから帰って来て、一大騒動となるのです。
●27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。
27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」
27:34 エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も。」
27:35 父は言った「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった。」
エサウは弟ヤコブに神の祝福をだまし取られたことを知って、愕然とし、大声を出して、声の限りに泣き叫び、父に自分のためにも祝福を求めますが、時すでに遅しです。リベカとヤコブの偽りにもかかわらず、この祝福は一回限りの霊的な祝福であり、それは有効でした。
●3. イサクとリベカの「家庭崩壊」(創世記27:46)
27:46 リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」
イサクとリベカの家庭は崩壊することになります。
兄エサウは、弟ヤコブを恨み、殺そうとします。その殺人計画を知ったリベカは、ヤコブを助けるためにまたも策略を巡らせます。夫イサクに、兄エサウの嫁のことでほとほと私は嫌になりました。
ヤコブまで異邦人の妻を持つことには耐えられない、だから今直ぐに、自分の故郷ハランに送り出して、妻をめとるように送り出して欲しいと懇願します。こうして家族はばらばらになります。
● 4人は、各々が、自分が蒔いた種の刈り取りをすることになります。
父イサクは、霊的アキレス腱の「大好きな肉料理」のために、兄エサウを偏愛しましたが、むしろ、弟ヤコブに祝福を与えてしまうことによって、懲らしめられます。
母リベカは、霊的アキレス腱の「子ども」のために、弟ヤコブへの異常な偏愛のゆえに、心を焦がし、離れ離れとなります。ヤコブを守るために短期間実家の兄ラバンの元に送りますが、20年間、ヤコブは母の元に帰ることは出来なくなるのです。ついにヤコブと一生涯、生き別れになってしまうのです。リベカは、再び息子ヤコブの顔を見ることはありませんでした。
長男エサウは、日頃より、霊的な事柄には無頓着で、長子の権利をスープ一杯で売り飛ばし、ついに長男の家督まで失って懲らしめを受けました。
弟ヤコブは、長子の権利と祝福を騙して奪い取り、結果、兄から命を狙われて、母の故郷へと落ち延びねばなりませんでした。しかも20年もの長き日に渡り、親の死に目にも会うことなく、叔父ラバンの元で、今度はヤコブが叔父に騙されて、こき使われて苦労して、懲らしめを受けます。
●結論:「自分のアキレス腱を知り、主により頼もう!」
❶ 自分のアキレス腱を知る
イサクとリベカの家庭の跡目争いを見ました。何か破れかぶれの人間模様、積み木崩しの家庭崩壊でした。聖書は、例外な人は、誰でもアキレス腱・弱さ持つものであることを告げています。主の御前に私たちすべての人は罪人であり、完全無欠な人はひとりもいません。みんな脛(すね)に傷を持ち、過去の影を背負っています。ですから私たちは弱さがあり、罪があります。そんな人間が救われるのは、ただ神の恵み、主の憐れみ、主イエス・キリスト様の十字架だけであることを指し示しています。愚かさと失敗を繰り返し、罪を犯し続ける私たち人間に対して、なお愛想を尽かすことなく、忍耐し、アブラハムの家系よりご降誕される救い主を伝えている主のお心です。
すべてを受け入れ、すべてを赦して、あなたを愛してくださる神の愛です。
こうして聖書は、いよいよ贖い主イエス様の救いの光を私たちに照らしています。
あなたのアキレス腱は、何でしょうか? 自分の弱さを知り、主の御前にへりくだりましょう。
そして、救い主イエス様の十字架と救いと希望に心から感謝をささげ、主により頼み、主への献身を新たにしましょう。皆さんアーメンですか?
❷ 弱さの中に現れる主の恵みを知る (第2コリント12章5・9)
12:5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
使徒パウロは「私は弱さを誇る」と語りました。当時のギリシャ文明では、勝者は強い者、敗北者は弱い者という価値観でした。オリンピックがギリシャから始まったことからも分かります。
力ある者が、勝者として賞賛される世界です。現代においても同じですね。しかし、使徒パウロはこのような文化の中で、自分の「弱さを誇る」と繰り返し語りました。それは第1に「キリストの力は、私の弱さのうちに完全に現われる」です。第2に。「キリストの力が私を覆うからです」
キリストの力が弱さのうちに完全に現されるとどうなるのでしょうか?
キリストの力があなたを覆って、あなたは強くされるのです。これが「弱い時にこそ、私は強いのです」というパウロの宣言です。「弱さを誇る」とは、私たちは、主の御前において被造物にすぎないこと、主の助けと支えなしには、「弱い存在」であることを自覚することです。
●クリスチャン作家の三浦綾子さんは病気のデパートのような人でした。次々といろいろな病気にかかったお方です。「私は、こんなに多くの病気にかかって、神様は私をえこひいきしているのではないかと思います。」と語っています。不思議な言葉です。それは、「私は病気を一つするたびに、一つずつ新しいことを学んだ。すばらしい恵みを受けた」と受け止めているからです。
病気になっても頑張りますという人はいますが、それとは格段に違うような気がします。三浦綾子さんの言葉は神への信仰から来ています。つまり、神は真実で良い方であるという信仰です。
確かに、彼女の病気は彼女の肉体を弱めましたが、彼女の精神をむしばむことはできませんでした。病は神から来る霊的ないのちを彼女から取り去ることはできませんでした。「外なる人は衰えても、内なる人は日々強められ」て行ったのです。病は確かに外なる人を衰えさせますが、彼女のうちに与えられた神への信仰は、彼女をより強くしていったのです。
皆さん、「キリストの力は、あなたの弱さの中に完全惟現れるのです。そしてキリストの力があなたをおおわれます。」だから「大いに喜んで、あなたの弱さを誇りましょう」皆さんアーメンですか?
お祈りいたしましょう。
愛する主よ、イサクとリベカの家庭、それは現代の私たちの家庭でもあります。夫婦に愛と信頼の一致がなく、親の偏愛によって、子どたちはバラバラとなりました。私たちはみなアキレス腱があります。そこから苦い刈り取りをしてきました。今、アキレス腱の弱さを認め、選び直します。主との関係を、夫婦の関係を選び直します。親子の関係を選び直します。弱さを認めます。弱さを誇ります。主の力で私たちをおおってください。主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」