キャンドルサービス
『 光と闇のクリスマス 』
ルカによる福音書2章1~7節
- メリークリスマス!皆さま、クリスマスおめでとうございます。今年は、新型コロナ感染症の闇が、全世界を覆ています。そのような中でも、オンラインを通して、また教会で皆様とクリスマスを共にお祝いできること主に感謝します。クリスマスについて2つのことを見たいと思います。
- 1. 主のご降誕は、歴史的な「出来事」です。 (ルカの福音書2:1~2)
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2000年前、世界を支配するローマ帝国の皇帝アウグストゥスとキリニウスというシリアの総督の名前が登場します。これは、救い主イエス・キリスト様の誕生が、歴史的な出来事であるという証明です。
私たちのこの世界は、自然災害や疫病が蔓延し、人種差別や争いが絶えません。そして様々な病によって私たちは苦しんでいます。イエス様は、天の栄光を脱ぎ捨てて、私たちのこの地上に、受肉されて、人となり、家畜小屋の飼い葉桶の中に、ご降誕されました。
そして、人々の苦しみの現実をご覧になり、病人を癒され、悪霊に苦しみ者を解放し、孤独な者の友となり、飢え渇いた者と共に食事をし、交わりを持ち、私たちの罪と咎を、十字架で背負われて、父なる神のさばきを身代わりに受けて、尊い血潮を流されました、そして三日目に死から、復活されました。
もし、クリスマスの出来事が、歴史の真実でなければ、私たちの信仰は、おとぎ話や空想の物語となってしまいます。そして私たちの信仰は空しいものとなってしまいます。しかし、私たちの救いは私たちが、好き勝手に作り出したものではなく、イエス様、ご自身が私たちのために十字架において、勝ち取ってくださったものです。イエス様がこの世界の歴史の中に存在しなければ、私たちの救いは成立しないのです。
ですから、ルカはこの救いの確かさを語るために、イエス様が人類の歴史の中に確かにお生まれになられたこと、実際に存在したことを、ここで明確に語っているのです。
- 2、 主のご降誕は、あなたのための「出来事」です。(ルカの福音書2:6~7)
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
- 宗教改革者マルチン・ルターの『クリスマスブック』という本があります。大変、素朴ですが、わかりやすくクリスマスの物語を語っています。ルカの福音書2章7節の「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」という聖書の言葉を紹介しながら、ルターは聴衆に問いかけます。
「皆さんは、救い主を自分の家に泊める機会が与えられながらも、それを拒否した宿屋の主人たちを愚かで、憎むべき人々だと考えるかもしれない。しかし、もし皆さんが同じようにこのベツレヘムの宿屋で忙しく働く人であったとしたら、本当に「自分は彼らとは違う」と言い切れることができるでしょうか?」と、聴衆に語りかけながら、次のように想像力を働かせます。
客で一杯に溢れる宿屋の中で、食事の準備や酔っぱらいの世話をするために懸命になっている彼らは、きっと宿屋の玄関に佇む貧しい若い二人の男女を顧みる余裕は無かったに違いないと…。」と語るのです。 はたして私たちもこの宿屋の主人たちを非難できるでしょうか?
私たちも同じように毎日、毎日、ビジネスや仕事のノルマに追われています。学生は、受験や学校の勉強や部活や塾に追われています。お母さんたちは育児や家事に毎日追われています。
目の前のやるべきことに対応するが精一杯になって働いているのではないでしょうか? そんな私たちがベツレヘムの宿屋の主人たちとどこが違うでしょうか? おそらく、私たちの誰もが「私は違います」とは胸を張って言えない、そんな慌ただしい生活を送っているのではないでしょうか?
私たちも、ベツレヘムの宿屋の主人たちと同じように、このクリスマスの喜びと祝福の主のみ言葉を聞くことができません。私たちの耳は、日々の思い煩いと悩みの言葉によって占領されてしまっていないでしょうか?これが、師走を迎えた、私たちの現実です。しかし、イエス様の救いはこんな私たちの現実に向かって呼びかけられているのです。
- ここに、ルオーの『郊外のキリスト』という絵があります。月夜に照らされてキリストと貧しい親子が立っています。貧しい夫婦にも見えます。その 二人の背丈はキリストの肩にも届いていません。何ともアンバランスです。それだけでなく、この三人の影は後ろにある月の位置からそれているのです。これは、月影はなく、本当は、人生の陰のようです。 イエス様のまなざしが、その陰をじっと見つめています。
誰もが持っている人生の陰をキリストが背負うとしているかのようです。それとは別に、キリストの横には月影らしきものが延びています。 三人が立っている道は、両側の建物より数段も下がっています。郊外の人が住む建物とはかけ離れた感じがします。アンバランスなのですが、それがキリストにとって当然の場所であるかのように感じもします。 人々からも、切り離され、沈められ、隔離されているのです。 帰る家もなく、暖を取り、夕食 にあずかれる食卓もないのです。 寄る辺もなく、これからどこに行った らよいのかも分からなく、ただじっと自分たちの陰を見つめています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1 2) ことばである御子イエス様が肉となって、私たちの間に住んでくださいました。まさにクリスマスの知らせです。人となり降誕された主は、確かに 今、郊外の貧しい親子と共にいて下さいます。影を負い、陰を見つめることができます。それがあたかも、私たちの間に住んでいてくださるしるしであるかのようです。温かい居間で一緒に暖炉に当たってので はなく、月夜の寒い夜に寄る辺のない者と共におられるのです。
コロナの影響で、仕事を失い、お金が底をつき、アパートを出て、ネットカフェ、そして町の路上でのホームレスになった青年が、わずかな持ち物が夜盗まれるのではないかと心配で、まともに寝ることもできないという新聞記事を読みました。幸いNPOの人たちの助けで、温かい食事を頂き、安心して横になって休める、住まいをやっと得ることができたそうです。
- イエス様は、宿屋にはその場所がなく、「飼葉おけ」(ルカ2:7)が、地上の最初の住まいの場所でした。まるでイエス様は、難民のような、ホームレスのようなものです。それは、本当の居場所を持たない私たちを、父なる神のふところに迎え、神の国に導くためであったのです。
- クリスマスは、イエス様が私達の中に住むために来られたのです。難民やホームレスの人々だけでなく、この地上で、本当の居場所をもたない、ひとりひとりのために、イエス様は、人間となり、あなたを迎えてくださるのです。 イエス様は、そんな私たちの心の扉を叩いておられます。
誰にも迎えられない人たちと一 緒に寒い夜空の下に立っておられるのです。 クリスマス、それはイエス様が人となり、あなたと共に、一緒にいるためです。人の悲しみや弱さを担い、抱えている傷を共に負ってくださるためです。そしてやがて天国へと導いてくださいます。この救い主イエス様を、あなたの心にお迎えし、主に感謝し、共に喜び、主をほめたたえましょう!
【祈りましょう】 父なる神様。御子イエス様をこの地上に遣わしてくださり、私たちひとりひとりを愛して、十字架によって、罪の赦しと永遠の命の救いの御業に感謝いたします。イエス様は私たちの世界と人生に起こるすべてのことを支配しておられ、それらを用い、神の約束を必ず実現してくださることを感謝します。また、現代のコロナ闇の中に、希望の光が輝いていることを感謝します。イエス様が私たちと共にいてくださる幸いを何よりも喜ぶ者とさせて下さい。主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。